2003年05月23日(金) |
ナイーブな人(5)ここまでのまとめ |
これまでの話を一旦まとめてみる。
日本は今まで「庇護社会」という形のシステムをとってきており、その システムの内側にいる限り、人々はナイーブ(純真、無垢)なままで いられたし、日本ではそんな風に「ナイーブ」であり続けられることに プライオリティが置かれているのかもしれない。 それはいわゆる「勝ち組」層と重なる部分があるように思う。
そしてそのことは、「ナイーブ」という言葉が、日本では「ほめ言葉」 として流通していたことともパラレルではないと思う。
でも、それは今現在に始まった話ではなく、おそらくはかつての「村社会」 の時代からの伝統なのかもしれない。 それは例えば。「村八分」であったり、「よそ者」が定着することを嫌う 性質だったり。 異物をとりこむ事に対して強烈なアレルギーを示す性質とでも言えばいい のか。
それは例えば、例の白装束集団のキャラバン隊に対して、道路をバリ ケードやトラクターで強引に封鎖してしまう態度そのものかもしれない。 あのステッカーや道路の不法占拠も道交法違反だと思うけど、道路を一 民間人が封鎖してしまうのも道交法違反じゃないのかなあ、なんて思ったし。超法規的措置?
昔だったら、自分の村の外に出て行ってもらえれば、それでめでたしめで たし、問題はなかったのかもしれないけれど、今はご丁寧に全国ネットで 中継までしてくれる世の中になっているから、彼ら異質なものは取り込ま れる事はなく、どこまでも漂流しかねない状態になっていたわけだ。
ついでに脱線すれば、元旦の暴走族たちも、白装束着てたらもしかして 警察も大目に見てくれたりとか?しないとは思うけど。
おそらく、人々が「ナイーブ」であり続ける上で重要なのは、その枠組み が変わらず維持され続けるという事だろう。だって、その状態が長く続けば続くほど、「既得権益」を持っている人たちにとってみれば、自分の 権益は守られ続けるし、ナイーブなままでいられるかもしれないわけで。
「抵抗勢力」なんてそのために抵抗しているんだろうし。 だから、ナイーブなままでいたい人たちは総じて「保守的」になるような 気がする。
ただ、日本の場合、面倒くさいのは、革新勢力もすでに自分達の保身に 走ってしまっている場合があるので、「現状を維持したい」という意味で は、政治的対立が起こりにくいって事があるのかもしれない。
そんな感じで、今までの庇護社会としての日本は、ナイーブな人たちを ナイーブなままで養っていける余裕があったといえるんだけど、冷戦構造 が崩れて、世界の枠組みが変わって以降、その「庇護社会」のシステムに ほころびが生じてきたと思うのだ。それも同時多発的に。
それは例えば、 1)一つは、冷戦構造が崩れ去ったことでアメリカが無条件に日本の安全 を守る「核の傘」の大義名分が薄らぎ、安保上の危機が出てきたこと。
2)冷戦の終焉と同時に偶然?日本のバブルがはじけてしまい、日本が 構造不況におちいったこと。
3)オウム真理教に始まる様々な事件やら、学級崩壊やら、外国人窃盗団 と思われるピッキング被害やら、様々な社会的不安が表沙汰になってきた事。
これらの問題は、それ以前にももしかすると問題としては存在していたの かもしれない。 でも、今まではそんなに問題視はされてはこなかったんじゃないかな。 なぜなら、庇護社会というシステムにうまく守られていたから。
だから、昔は「有事法制」なんてことを考えなくてもいざという時はアメリカ軍に守ってもらえるから、日本は攻撃されないと高をくくっていたし そういう枠組みがあるからこそ、社会党は「自衛隊は違憲だ」なんてのうのうと言えてたわけだし。
高度経済成長が続く限りにおいては、終身雇用でリストラなんて全然問題 にならなかったし、官僚たちが天下って特殊法人でいくら税金使ってもう からない商売していようが目立たなかったし。
地域のコミュニケーションというか「地域」という名の「村社会」がちゃ んと機能していた時代には警察の検挙率だって高かったし、そもそも外国人が日本に来て犯罪を犯すなんて考えもつかなかったわけだし。
教育だって一律みんなエリートを目指せば幸せになれる、と信じ込ませて いられる間は教育の効率はよかったわけだ。
ただ、残念ながら今現在、日本の庇護社会のシステムはほころびつつあり そのために様々な問題が起きている。
このことはつまり、今までナイーブにいられた人たちが、ナイーブなままではいられなくなるかもしれないって事なわけで。 という事で次回。
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