2003年05月21日(水) |
ナイーブな人(3)庇護社会 |
さて、ナイーブな人の3回目。 前回は「ナイーブな行動」について、考えてみた。 すなわち、 「自分達の内側で通用する論理が自分達の外側でも通用する」と思って いる事。そして、 「自分の外側にあって、理解の範囲を超えることに関しては拒否反応を 示す事」 である。
この言葉、実は書いている本人にも当てはまっている部分がある(笑)。 そもそもそんな事をここで書いていること自体、「ナイーブ」かもしれない。 だから、この一連のシリーズは「自分の中のナイーブさとどうつきあって いくか」という話になるかもしれない。
さて、冒頭の定義。 これを別の言い方で言い換えると「自分の内側にあるものに対しては甘く 外側にあるものに対しては冷淡である」といえるかもしれない。
これは、精神科医香山リカと福田和也のナショナリズムについての対談本 「愛国問答」の中の香山リカのイントロ部分からの引用。
ビジネスやアカデミズムの世界で"成功している"と言われる若手に会うたび、彼らの人あたりの良さや趣味の良さ(つまり「オヤジくささがない」ということ)に感心すると同時に、彼らが「強い」「正しい」「稼ぐ」「有名になる」ことなどをあまりに屈託なく肯定しているのに驚かされる。
逆に言えば、彼らは「弱い」「正しくない」「稼がない」「無名のまま」 が大きらいで、そういう状態にいる人を心底、軽蔑しているのだ。 と言うより、「そういう人も、自分と同じ人間なのだ」という意識がそ もそも欠落している。自分たちと同類の(と判断した)人間には気持ち 悪いほどやさしい彼らなのに、話がひとたび自分たちとは異種の(と判 断した)人やできごとの話になると、「あんな犯罪者たちは一生、オリ の中にいてもらいたいですよ」とか「ホームレスが町をうろうろするの は汚いですよね」などと手のひらを返したような冷淡な態度を見せる。
彼らのもうひとつの特徴は、自分と同類の(と判断した)相手は、自 分と同じ価値観を共有しているだろう、と信じて疑っていないことだ。 あるとき、ベンチャー企業の若き社長に「精神障害者を簡単に退院させ られては、私たちは安心して暮らせませんよね」と正面から言われて、 一瞬返答に窮したことがある。彼はもちろん、私が精神科医であること を知っている。穏やかなその表情を見ていると、私にケンカを売ってい るわけではなさそうだ。
どうも彼はパーティートークのひとつとしてそう言い、彼と同類の(と 見なされたらしい)私も当然、「ええ、本当ですわ。地域の安全が保た れませんもの」とでも答えると考えていたようなのだ。 そう気づいたものの、私としては一応、「あの……、精神障害者が危険 だ、なんていうのは完全な誤解なんですが。それに、いろいろな人がい てこその健全な社会、と言えるんじゃないでしょうか」と言ってみた。
すると彼は、「はあ?」と表情をフリーズさせ、「なぜこの人は自分と 違うことを言っているのか」と考える様子さえ見せずに、「ところで携 帯電話の普及率ですが」と会話を別の話題へと移した。おそらく彼の中 では、「精神障害者は危険、そんな人が身近な地域にいてもらっては困 る」という価値観は1ミリも動くことはなかっただろう。似たような経 験は、ほかにいくらでもある。
そして、そういう社会に対して「庇護社会」と名づけた人が妙木浩之。 彼の著書は読んでいないんだけど、村上龍との対談本「存在の耐えがた きサルサ」から引いてみる。
村上 妙木さんの「庇護社会」という用語は本当に実感できるんです。 「庇護社会」というのが根底にあって、たとえば土居健郎さんが いう「『甘え』の構造」があると思うんです。甘えというのがまず あるわけじゃなくて、庇護社会があって、甘えというのは「私は 庇護されている」「庇護している」という関係性を確認する行為 ですよね。
妙木 「庇護社会」は日本が1940年代からずっと保ってきた社会経済 システムを指しています。当時の革新官僚たちが作った共産主義の 管理福祉社会に近い計画経済システムでした。それがそのまま終戦 後も生き永らえてきたんです。
庇護社会は、政府(お上)、企業、家庭からなる同心円の構造を しています。ここにも日本が昔から持っている反復がある程度あ りますが軍国主義化の中でこの構造は強化されたんです。
そして「お上」は企業を、企業は労働者とその家族を庇護します。 お上は公共投資や護送船団方式で企業を守ります。企業は家庭の 父親を戦闘員として同化するいっぽう、終身雇用制度と福利厚生 で家族を庇護します。どこを切っても金太郎さん構造なんです。 でも、軍事体制なので危機状態には国をあげて対応できる。それ で戦後の日本はとても強かったんです。つい最近まで戦争に負け て経済に勝ったって言われてきました。
庇護社会では、平等な分配を求める傾向が生まれ、累進課税など の仕組みで飛び抜けた大金持ちが生まれないようにしています。 ただ企業は、ベンチャーや投機、あるいはマネーゲームに参加し なくても、お上がどうにかしてくれるという庇護感覚が強いので、 現代のような複雑な金融システムの上に成り立っている経済にと ても疎いのが特徴です。
現代の金融の世界は個人が情報に基づいて行うマネーゲームの上 に成り立っています。庇護社会はこの情報戦にとても弱い。だか らデリバティブの世界では失敗するし、国際情報戦では敗退する し、バブルがはじけるとあたかも自分の失敗ではなく国の責任で あるように感じたり、天命としてあきらめたりします。だから経 済思考は育ちにくいといえます。さらには自立の感覚がなく、国 の安全保障についてもアメリカに任せきりの態度をとります。こ れらすべてを「甘え」と呼んでいいと思います。
ここで、いきなり現在の政治、経済情勢に持ってくると、ある構図が 浮かび上がってくるような気がするのだ。
今までの日本の場合、高度経済成長の時代は護送船団方式が成り立ち、 国民一人一人に等しく富の分配が行なわれていた時代だった。
そんな時代の中ではおそらく、「ナイーブでいられること」は一番の プライオリティだったのかもしれない。 すなわち、「いい学校に入っていい企業や官庁に就職して」という事が もてはやされた時代。
「ナイーブ」であることの利点は、「自分が傷つかなくてすむ」「精神的なコストを余計に払わなくてもすむ」事だろう。 だって、同心円状の庇護社会が「余計な心配をしなくてもすむ」社会を保障してくれていたんだから。
だから、そういう時代のエリートとはある意味では「最もナイーブな」 ままで過ごせる人と言えるような気もするのだ。 ちょっとやっかみ入ってますけど。
ただし、現在ではその構図は段々と崩れつつある。 あるけれど、一部には強烈に残っている世界があると思う。 それは一体どこなのか? という事で次回。
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