パラダイムチェンジ

2003年04月25日(金) 感動だけが伝わる

これは放送時間が水曜深夜から土曜深夜に変更になったバラエティ番組、
「松紳」の中での一言。

松ちゃんからのプレゼントである、HIPHOPCDデビューをしきり
に嫌がる島田紳助に対して、松ちゃんが「でも、昔は紳助バンドをやっ
てたじゃないすか」
という言葉に対しての、起死回生の一打。

「あの頃は若かったからや。若いときにはな、本気で思っている時に
思っている事をするのは、恥ずかしくないよな。でもな、26くらいに
なって、「愛してるよー」と本気に思ってたら歌えるけど、思っても
いないことをしゃべっている自分に気付くとすっごく恥ずかしくなる」


でた、クリティカルヒット!久々の紳助節。
この後、

「今自分が本気で思ってないことを歌うのは、自分の生き方に反すると
思うねん。今伝えなあかん、と思っていることに関しては、どんなに下
手でもなんのためらいもないし、ちっとも恥ずかしくないよ」

と続く。


思い出しながらの書き写しなので、相変わらずの関西弁の下手さ加減に
は目をつぶってもらうとして、この番組録画を見ていたとき、思わず
うんうん、とうなってしまった。

そうなんだよね、若い時にできて、今は出来なくなってしまうというか
恥ずかしくなってしまうのって、当時の熱気というか、意気込みには
かなわないな、俺はそこまでの思いで伝えているんか?っていう気持ち
がどうしてもしてしまうからかもしれない。

番組の話はこの後、松ちゃんの「そうですよね、漫才なんかでも若い時
と同じ事やっても、ちっとも面白くないですよね。なんでなんでしょ?」

というネタふりから、二人の本業であるはず?の漫才の話に移っていく。


「今、昔の漫才やっても面白くないのは、昔と同じネタ、同じ間、でで
きるよ、やろうと思えば。でも絶対に面白くないねん。なんでかってい
うたら、自分が面白くないと思っているからや。

自分の中で自分をだまして、おもろないと思っているものをおもろいと
は、絶対に見せられへんねん。

漫才のうまい奴は違うねん。何十本もネタを持っていて、営業でアレや
ってくれ、って言われたらその場でちゃんと、己の技術力でスパーンと
やんねん。

でもな、俺(紳助竜助)やダウンタウンは違うねん。いっつも一本しか
ないねん。急にアレやってって言われてもできへんねん。なんでかって
いえば、技術がないからや。技術がなくて、自分の中の胸いっぱいの
思いというか、魂でしゃべるから、面白いやろお前ーって伝えんねん」

松本「そうですよね、チャーリー浜さんは、毎回『ごめんくさい』と思
っているから、毎回『ごめんくさい』って言えるんですよね」

「そういうことや。あれ、自分で俺はいつまでやってんねん、と思った
瞬間に、『ごめんくさい』は絶対にいえないし、客には受けへんねん。

昔な、矢沢永吉のドキュメンタリー映画があった時、梅田花月の出番と
出番の間に見に行って、ごっつうカッコイイと思って、永ちゃんの気分
のまま、出番になって、アドリブで今見てきた映画の話を、まだ映画を
見ていない客の前でしたことがあんねん。
観客は爆笑や。見たこともない客に伝えてもちゃんと伝わる。ラッキー
これは簡単にネタ一つ出来たわー、と思ってたら、翌日からはすべりま
くりや。何でかいうたら、今おもろいーという思いが伝わっていただけ
やねん」



ここでいきなり自分に話をふれば、実は似たようなことを自分も思って
いたりする。

つまり、
自分が面白くないと思うものは、たとえこんな小さな日記ページでも
やはりアップは出来ないと思うし、ここから何かが伝わるとすれば、
自分が感動したことだけ、なんじゃないかな、と思うのだ。

なぜなら自分が思ってもいないことを書いて、他人を感動させるだけ
の力量が自分にあるとも思えないからでもある。
それは、紳助の言葉を借りれば、「自分が本気で思っていないことを
するのは、自分の生き方に反する」と思うから。

そしてそれは、たとえば他の日記サイトや、個人ページにも言えるん
じゃないかな、って気がするのだ。

私が他の人のページを読む時、文章表現の上手下手にひかれるのでは
なく、その人が伝えたいと思うこと、その思いがあるかどうか、そして
その思いを個人的に面白いとおもうかどうかにかかっているような気が
する。

私のこのページに載せた思いが、このページを読んでいる他の人の心に
どれだけ響くのかはわからない。
でもたとえば、文章表現ではアマチュアの域を出なかったとしても、
自分の感動を伝えることのプロでありたいと思ったりするのだ。
そしてそれは、なにも文章表現に限った事ではなく。


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harry [MAIL] [HOMEPAGE]

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