パラダイムチェンジ

2003年04月15日(火) 報道戦争

さて、今回も前回に引き続き、この寸劇―さすがに茶番劇とはいえない。
だって、実際に人が死んでいるのだから―を見たことに対する違和感を、
マイケルムーアの著書「アホでマヌケなアメリカ白人」 から引用しつつ
考えてみたい。

とりあえず、この本、引用部分に限らず、というか引用していない部分
で結構面白い本である。
じゃあ、なんでその面白い部分を引用しないのかって?
面白いけど、引用するには長くなりがちなんである。

最初の印象では、著者はブッシュさんのこと相当嫌っているんだなあ、
民主党の人なのかなあ、なんて思ってたけど、話は段々とブッシュ大統
領に限らず、アメリカ白人が、おそらくは当たり前だと思っていること
に関して、そこが変だよアメリカ白人、みたいな感じで突っ込みまくっ
ている。

かといって読んでていや〜な気分になることもなく(白人じゃないから
当たり前か)、この人ユーモアがあって頭いいなあ、なんて気になる
本である。
あまりに面白いんで、原書も買ってしまった。
最後まで読み通すかどうかは別として、原書を読んでみたいという気に
させてくれる本だった。


さて、今回のイラク戦争。報道という意味では結構画期的な戦争だった
と記憶されるかもしれない。
12年前の「湾岸戦争」時、多国籍軍が報道管制を敷いたこともあり、
限られた情報しか流れてこなくて、「見えない戦争」と批判されたのに
対して、今回は何と、エンベッド方式という形で、兵士たちに従軍取材
することが可能になったのだ。

もちろん、それは英米軍サイドに限った話ではない。
アフガン戦争の時にも活躍した、アラブ系TV局、アルジャジーラを
始めとして、世界各国のフリージャーナリストたちが、バグダッドを
中心として、イラク側からの取材をしていた。

その結果、開戦の始まりから、この戦争の模様は私たちのお茶の間に
流れたし、その量たるや膨大なものとなった。


でも、その一方で、誤報や逆に報道をうまく使った情報戦の様相を
両陣営とも示すようになったのも事実である。

開戦当初、イラク側で大量の捕虜が生まれ、最初の街は解放されたとい
う報道の直後に、その街で武力衝突が起こったし、アメリカがCIAや
特殊部隊によって、フセイン大統領の居場所を特定し、空爆したという
情報のすぐ後には、フセイン大統領が国民に対して演説をする姿が報道
されたりした。

すなわち、あふれ出る情報の中の、何が真実で何が嘘なのか、お茶の間
にいる私たちには、判断のつきようがない状態になってしまった。

その場合、私たちはとりあえず、目の前の映像から情報を得ようとする。
すなわち、イラク側から、空爆に巻き込まれたイラクの民間人被害者の
報道を見れば、悲惨だなあと思うし、アメリカ軍に従軍している記者か
ら戦闘の映像が出れば、そのリアルさにドキドキする。しかもそこには
軍事評論家のオタクな解説付き。

そんな映像の洪水が問題になるのは、いつしか私たちはその映像を見る
事で思考を停止してしまうことだろう。
でもね、その裏には特に英米軍の、巧妙な情報操作が紛れ込んでいるよ
うな気がしてならないのだ。


もしも今回、英米軍への従軍取材がなかったとしたら。
おそらく報道される映像は、イラクというかアルジャジーラTVから
報道される、イラクの戦争被害の悲惨さを訴える映像にお茶の間は占拠
されたことだろう。
そこから導き出される我々の感情は、おそらくは更なる反戦感情への高
まり、であると思う。

だからこそアメリカ軍としては、お茶の間の感情が一方的なものに占拠
されないように、それに対抗する映像情報を提供する必要があったのだ。
そして、もうひとつ、最前線で戦う兵士たちの姿をお茶の間に見せる
ことは、更なる戦意高揚に役立つことになる。


そして私たちはものの見事に戦争報道に振り回された。
開戦当初、アメリカ軍が、一日に考えられないほどの距離を行軍したら
その素早さに驚いたし、その一方であまりに進みすぎて、補給が間に合
わない、なんて報道があった時は、それ見たことか、と思いつつも、そ
の部隊の行く末を心配した。

ひとつはっきりしている事は、アメリカ軍はそんな風に戦争報道を巧み
に利用することで、お茶の間を見事に自分達の側につけることに成功し
たといえる。

その一方で、彼らの報道の中に、イラク軍、という抽象的な存在は出て
きても、実際のイラク軍の戦死者や、そしてそれに巻き込まれたイラクの
民衆の実際の風景なんていうのは極力表に出そうとしなかった。

もちろん、お茶の間に死体の映像が流れるなんて事は想像できないけど、
そんな悲惨さが裏に隠れていることすら、圧倒的な報道の影に隠そうと
したような気がするのだ。

例えば、あの空爆に(イラク側から言えば空襲だ)巻き込まれて、家族
と共に自分の手足を失ってしまったイラク人の少年の映像は、果たして
アメリカの家庭では流れたんだろうか。

おそらく、流れたとしてもその情報はおそらく、例えばあの美人の女性
兵士の救出劇、という美談の影に隠れて目立たなくなってしまったんじゃ
ないかな。今では、あの女性兵士は国民的ヒーローに祭り上げられてい
るらしいし。

そしてその女性兵士の救出劇といい、あのフセイン像が民衆たちと共に
アメリカ軍に倒されるシーンといい、そのあまりのタイミングの良さに
個人的にはどうしても疑惑の目を向けたくなってしまう。

だって、記者たちに対して、誤爆だかあえて撃ったかは別としてアメリ
カ軍が、前日に銃弾を打ち込んだ、まさしくそのホテルの目の前のフセ
イン像が、翌日には記者たちの目の前で象徴的に倒されるなんて偶然が
果たして起こりえるんだろうか。

そのおかげで少なくともこの国のニュースは、記者たちに銃弾が打ち込
まれた事は吹っ飛び、あの象徴的なシーンのオンパレードに変わって
しまったのだ。

さて、「アホでマヌケなアメリカ白人」の中にこんな文章がある。


 俺たちは、黒人は凶悪な敵だというイメージを刷り込まれ、すっかり
洗脳されちまっているんだ。俺の最初の映画『ロジャー&ミー』では、
生活保護を受けている白人の女が、棒でウサギを殴り殺す。ペットとし
てではなく、「肉」として売るためだ。この10年の間、俺はしょっちゅ
う、「かわいそうな子ウサギちゃん」が頭を殴られるシーンが「恐ろし
く」「ショックだった」と言われ続けてきた。本当に吐き気がしたと言
われた。その場面で映画館を出ちまった奴もいる。なぜ、あんなシーン
を入れたのかとしょっちゅう聞かれた。アメリカ映画協会(MPAA)は、
このシーンがあったために、『ロジャー&ミー』をR指定にした。手紙を
くれた教師たちは、この映画を生徒に見せる際に問題にならないように、
このシーンを削除したという。

 だけど俺は、このウサギ殺しのわずか2分前に、フリントの警官がスー
パーマンのマントを着ておもちゃの銃を持った黒人を射殺するシーンを
入れておいた。だがこれまで一度も―本当に、ただの一度だって―「映
画の中に黒人が射殺されるシーンを入れるだなんて信じられない!何て
恐ろしい!吐き気がする!何週間も寝られなかったじゃないか」などと
言われたことはない。なぜなら、彼はただの黒人であり、抱きしめたく
なるようなかわいいウサギちゃんじゃないからだ。黒人が射殺されるの
は、ひどいことでも何でもない(少なくともMPAAの倫理委員とやらの中
に、このシーンに文句を付けた奴はひとりもいなかった)。

 なぜか?黒人が射殺されるシーンなんてのは、ショッキングでも何で
もなくなっちまってるからだ。それどころか、それは当然で、当たり前
のことなんだ。俺たちはみんな、黒人が殺されるのを見慣れている―映
画でも、ニュースでもだ。だからそれを当然のように受け入れるんだ。
どってことないけど、また黒人が死んでるよ!ホントに黒人ってやつは、
殺したり殺されたり、そればっかだね。ヤレヤレ。ちょっとそこのバタ
ー取って。



さて、これを読んでいるあなたなら、果たしてかわいいウサギちゃんの
残酷シーンと、黒人の命が奪われるシーンのどちらに気持ちが揺れるだ
ろうか。

そう、これは差別感情のあるなしにかかわらず、アメリカ白人のみなら
ず、映像を見ている人すべてに起こりうる感情かもしれない。
ウサギ一匹と、人間ひとり。もちろん命の重さで言ったら、等しく平等
であるって考え方ももちろんあるけど、時としてその重さは、人間様が
負けてしまう。

そして同じことは戦場でも起こりうる。
絶えずカメラの側にいる兵士の命と、その兵士が撃った弾で爆発炎上し
たはずの向こうの戦車に乗っていた人の命と。それを見ている私たち、
すなわち赤の他人にとっては、等しく同じ命であるはずなのに、時とし
てその命の重さには差ができてしまう。


でもね、忘れちゃいけないのは、あの9.11に巻き込まれて大切な家族を
失った人たちの嘆きと、運悪く空爆に巻き込まれて大切な家族を失った
人たちの嘆きに差は決してないって事だろう。

そして、映像時代の戦争が、決して全てを映し出している訳ではない
という事を覚えておいた方がいいと思うのだ。


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harry [MAIL] [HOMEPAGE]

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