パラダイムチェンジ

2003年03月15日(土) 「チョコレート」

ということで、今回は前回の続きで「チョコレート」。

この映画、見終わると、まるで一本の小説を読み終わった感じのする
映画だった。例えば、山田詠美の小説のように。

主演は、ビリー・ボブ・ソーントン、ハルベリー。
ビリー・ボブ・ソーントン演じる、ハンクは、刑務所の刑務官。
介護が必要な父親と、同じく刑務官である息子と一緒に暮らしている
んだけど、ある日喧嘩をした息子が目の前で、自殺をしてしまう。

ハルベリー演じるレティシアは、殺人囚の妻。
夫が処刑され、一人息子と暮らしていくために、働きにでるんだけど、
ある日、その息子が目の前で交通事故に遭ってしまう。

前回も書いたけれど、この映画、「喪失」がテーマになっていると思う。
失ったものがあって初めて人は、失ったものの大きさを知るのかもしれ
ない。

そして自分が失ってしまったものの大きさに、途方もなくくれてしまう
時、人は誰かそれを埋めてくれる人に、側にいてほしいと思うのかもし
れない。

この映画を見ていて思い出した文章があった。
それは、北村薫 「六の宮の姫君」 の中の一節。

「(略)空気の違いや水の違いみたいなものをね、自分と同じ方向で
 感じる人、そういう男の人の側にいられたらどうか。きっと、くす
 ぐったいように嬉しいというか幸せというか、そんな気持ちになると
 思うのよ」
「女じゃ駄目なの?」
「抱きしめてもらうには、男の方がいいでしょう」
 
 正ちゃんは、口笛でも吹きそうな格好にしてから、
「今夜は随分いうじゃない。でも、《方がいい》というのは、アブナイ
 なあ。次善の策として、襲われたらどうしよう」
 
 私は微笑んで、それから元の顔に返り、
「これは違うのよ、いわゆる《抱いてもらう》とは。大學先生のお話の
 中に、与謝野晶子のことが出て来るんだけれど、彼女は死ぬのをとて
 も恐がっていたらしい。子供のお嫁さんに頼んでいたそうよ、《あな
 たは力が強そうだから、私が死ぬ時はギュッと押さえていてね》って。
 晶子の場合は、鉄幹が先に逝っちゃったけど、そうでなかったら、当
 然彼に頼むところでしょう」
 
 正ちゃんは、じっと私の顔を見た。私は続ける。
「で、それは何も最期の時とは限らない。生きていく上で、中空にいる
 みたいな、人間の孤独を感じたら、理屈じゃなくって文字通り、揺れ
 てる自分を押さえつけてほしくなると思う。そんなの甘えだといわれ
 たら一言もないけれど」

 強い正ちゃんの手前、弁解する口調になったかもしれない。正ちゃん
は、その気配を察したのだろう、小さく首を振り、
「押さえる側とさ、押さえられる側を一組のチームだと考えたら、いい
 んだよ。そうしたら、それも日々の歩みの、大袈裟にいえば戦いの、
 大事な一環じゃないかな」
 正ちゃんは女だから言葉で、しかし確かに、私を押さえてくれた。



この映画の中でハンクとレティシアは、それこそ失ったものを忘れる
かのように、お互いに動物のように求めあう。
そうすることによってしか、自分を押さえつけられないかのように。

でも、その一方ではこうも思うのだ。
人は何かを失うことによって初めて、何が大切なのかに気づき、そして
得ることができるのかもしれない。

この映画、ちょっと見た目は黒人差別問題を色濃く残しているように
見える。
でもそれは、どこか無理して突っ張って生きているせいなのかもしれな
い、なんて気がしたのだ。
そしてそれは、とても寂しい光景のような気がする。
ハンクの場合は、息子を失って初めて自分に正直に、隣人たちと生きら
れるようになったのかもしれない。

そして、同じことは今こうして戦争への道をひた走っているアメリカと
いう国の、病理だと言えるような気もする。

ラスト(ちょっとネタばれ?)、
二人はベランダに腰掛け、チョコレートアイスクリームを食べる。
「俺たち、うまくやっていけるさ」というハンクの言葉を聞いて
レティシアがじっと彼のことを見つめている時、果たして彼女は
何を思ったんだろう。

邦題になった「チョコレート」は、自分の寂しさを埋めるための代用品。
でも、二人は多分、誰かの代用品じゃないと思いたい。
見終わった後、なんか強いお酒が飲みたくなるような映画だった。

でもなんでアメリカの片田舎のレストランの風景ってこんなに寂しく
見えるんだろう。
一人は寂しい、と思う人におススメの映画かもしれない。

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harry [MAIL] [HOMEPAGE]

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