今日は月に一度の映画ファン感謝デー。 仕事の都合上、レイトショーしか見られなかったので、新宿武蔵野館にて 鑑賞。
この映画、一言でいうと、どこか懐かしい感じのする映画だった。
舞台は第二次大戦後の復興期の大阪。 空襲された後、野ざらしのまま放置されている兵器工場に、 金に換えるために鉄を拾いに行く男たちと、それを捕まえようとする 警察。そしてそんな男たちを陰で支える女たち。
この映画は、人々がそんな風にがむしゃらに生きていた時代の物語。
原作は梁石日。監督は「新宿梁山泊」の金守珍。 新宿梁山泊は、さすがに観たことはないんだけど、唐十郎劇団などと 共に小劇場ブームの前、テント公演を行っていたらしい演劇集団。
だからという訳でもないのだろうが、この映画はとても演劇的な匂いに 満ちた作品となっている。 例えば音楽の入り方とか、廃工場を逃げるシーンとか。
この映画は在日朝鮮人達が主役の映画で、日本を舞台にしているん だけど、驚くほど日本人は出てこない。 出てくるのは警察権力として、彼らを差別し追い詰める存在として だけである。 その辺の切り取り方というか、構図の作り方も非常に演劇っぽいと思う。
でもその演劇的な匂いが、この作品の魅力を引き立てていると思う。 まるで、スクリーンの上なのに関わらず、まるで目の前で役者さん達が 芝居をしているような、そんな迫力があるのだ。
この映画が、役者の肉体にこだわっているのも、その理由の一つ かもしれない。 例えば役者同士が喧嘩をする時、ただ単なる型どおりの殺陣ではなく、 そこに役者の身体の躍動が見えるからこそ、その演技の説得力を 増しているのかもしれない。
例えば、主演の山本太郎が、わき目も振らず全力疾走している姿は それだけで映像として説得力があった。 なぜなら、それが本当に全力疾走しているようにしか見えないから。
主演の山本太郎だけでなく、実はこっちが主役なんじゃと思うくらいの 活躍をする六平直政。いつの間にか復活していてコミカルな演技が 印象的だった仁科貴、風吹ジュン、樹木希林、唐十郎、そしてこれが 遺作となってしまった清川虹子など、個性派の役者さんが所狭しと 駆けずり回っている姿は、格好いい。
そしてもう一つ、私がこの映画を懐かしいと思う理由。 それは、空き地の思い出かもしれない。
私が子供だった頃、住んでいた世田谷でも沢山の空き地があった。 昔は、家を壊した後、しばらくは更地のまま放置している場所が 少なくなかったような気がする。
空き地の原風景っていうのは、今だとドラえもんの世界、すなわち 雑草が生えていて、なぜか土管が3本並んでいる風景だろう。 直接、空き地で遊んだことのない今の子供でも、この風景にどこか 懐かしさを覚える人は多いかもしれない。
でも私が子供の頃、空き地に置いてあった物は土管だけではなかった。 そこには、様々な遊びの道具になり得るものが落ちていたことを 思い出すのだ。 雨でしわしわになったエロ本だけじゃなくてね。
例えば、丸いタイルが大量に落ちているのを見れば、それは次の日から 学校でおはじきの道具や景品になったし、今は使われていない工場跡で 見たこともない、メーターが沢山ついた機械が捨ててあるのを見つければ それは、空想の中の宇宙船の操作パネルになったりした。
ファミコンが流行るまでは、そんな感じで想像の羽を広げて遊んでいた ような気がする。 これは大昔のことではなくたかだか20年前まではよく見られた光景 だった気がするのだ。
そして、そんな空き地や廃工場に忍び込むとき、必ず気にしたのは 大人の目だった。 つまり、大人に見つかったら怒られてしまうかもしれないから、いかに 大人にばれないように忍び込み、そして自分だけの秘密の道具を 持ち出すか。 そんなことにドキドキしていた、昔の思い出をこの映画は思い出させて くれたようだ。
この映画の中で、今まで一緒に盗みを働いた仲間たちが、北朝鮮の 「帰国運動」で北朝鮮に向かうシーンがある。 日本での貧しい生活から、北朝鮮に夢を抱いて、北の大地を目指す人々。
今となっては、その事を馬鹿だなあ、と思うかもしれない。 でも、あの当時の人たちにとっては、行くも地獄、残るも地獄、の心境 だったのかもしれない。
でも、たとえどんな状況でも人は生き続けていける。 今の世の中、私たちが、いや少なくとも私が忘れがちなのは、 そんなシンプルなことなのかもしれない。
生きていく元気のほしい人と、タワケ先輩(謎)の活躍を見たい人に おススメの映画である。 いや、マジで格好よかった。
「夜を賭けて」公式サイト
|