2003年という年、実は鉄腕アトムが生まれる年であるらしい。 すなわちまだまだ少年であるトビオ君がエアカーに乗って事故って しまう年。
残念ながら現実の2003年には、空を飛ぶ車であるエアカーは 実現化はしていないわけだが。 去年だったか一昨年だったか、おもちゃメーカーのバンダイが ドラえもんを、数年の内に造り出すという宣言をしていたような 気もするが、流石に十万馬力で自在に空を飛ぶロボットまでは つくれないようである。
まあ与太話はこのくらいにして、本題に移るけれど、2003年と いう年は、小さい頃はそれだけ夢の拡がる世界だったわけだ。 児童図鑑の未来の予想図では、高層ビルが建ち並ぶ、その間を透明な チューブが通り、中を車が行き来している。 そんな子供の頃の夢の世界と、現実の日本を比べると、ギャップの 激しさにビックリしてしまうかもしれない。
鉄腕アトムは、そんな中で科学が万能な時代の象徴的存在として 扱われることも少なくなかった。 それに反して、現実の世界では科学万能一辺倒であった、今までの 考え方に対して、異論が数多く聞かれるようになった気もする。
例えば原発の事故隠しとか、スイスの宗教団体によってクローン人間 が生まれるという問題であったりとか。 科学の進歩が、必ずしも豊かな未来だけを描くものではない、という 考え方も、説得力を増してきたような気もする。
でも、だからといって科学というもの自体を否定してしまっては 何も始まらないと思う。 問題になのは、科学技術に対する盲信というか、信仰であると思う からだ。
すなわち、科学は万能で全ての問題は科学が解決すると、信じること。 その信仰は、本来の科学的な思考法とはかけ離れていると思う。
まずは全てを疑うこと。そしてその中から何が正しいのか、考えること 科学の時代にあって、実は一番必要なんだけど、普段の私たちが 見落としがちなのは、そんな科学的な思考法で、ものを見るという 事なのかもしれない。
そしてちょっと考えてみると、先程の原発の事故隠しにしても、 クローン技術の人体への応用に関しても、問題なのはその技術を 扱う人間の心の方であるという事がわかる。
すなわちどんなに優れたハードやオペレーションシステムなどの ソフトがあっても、それを人が使いこなすことが出来なければ、 本来の意味からは外れてしまう。
そしてそれは科学の先端の話だけでなく、私たちの生活の中でも 大切な事なんだと思う。
鉄腕アトムは今年の春にまた、アニメとしてリメイクされるらしい。 その中では科学万能ではなく、心を大切にした内容になるという事だ。
でもそれは今までの鉄腕アトムの世界の中でも、作者の手塚治虫が 度々語ってきた話でもある。
自分にとって一番親しみがある鉄腕アトムは1980年頃、リメイク されたアニメの作品なんだけど、その中で一番心に残っている台詞は アトムが度々口にしていた、このわからずやー、であったし。
手塚治虫は常に優れた技術を扱う、人の心の弱さにもに目を向けた作品 を作ってきた。 それが今まであまり脚光を浴びてこなかったとしたら、それは今まで 私たちが輝かしい未来の部分に目を奪われすぎた結果かもしれない。
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