掛川奮闘記

2008年11月05日(水) 081105_報徳二宮神社〜尊徳先生のお墓参り

 日光の余韻をもう少し。

 日光市のイベントといいながらも、会場のオートキャンプ場は、市町村合併をする前は今市(いまいち)市というところでした。最初に降り立った駅も東武線の下今市駅。

 そして今市といえば、私の敬愛する二宮尊徳先生の終焉の地であるわけです。

 イベントに向かうときには、蕎麦イベントが最終日に早じまいをするようなら日光観光でもしようか、などと思っていたのですが、実際には最終日も夕方まで後かたづけ作業があって、観光などしている余裕はまったくありませんでした。

 (尊徳先生のお墓参りくらいしたかったものだ)と思いながら、来たときと同じ、東武日光線の下今市駅まで送ってもらい、ふと駅の横を見やると、そこには「栃木県史跡 二宮尊徳先生之墓」「報徳二宮神社東参道」と書かれた標柱が立っていました。
 なんと行きたかった尊徳先生のお墓は、このイベントに一番近い駅のすぐそばだったのです。



 迷わず報徳二宮神社へと向かいましたがその距離は徒歩三分。なんと近いことでしょう!

    ※    ※    ※    ※

 報徳二宮神社は二宮尊徳先生を御祭神として祀った神社です。日本では本当に偉大な人を神として祀ることが良くあります。ちょっと意味は違って怨念を鎮撫する御霊信仰に基づく菅原道真の天満宮神社があったり、日露戦争最大の功績者東郷平八郎を東郷神社として祀ったりもしています。
 ここ報徳二宮神社もそのならいの一つでしょう。



 神社の裏には尊徳先生のお墓もありました。

 尊徳先生自身は死を予感した際の遺言で「我が死応に近きあらん 我を葬るに分を超ゆること勿れ 墓を建つること勿れ 碑を建つること勿れ 只土を盛り上げその傍らに松か杉を一本植え置けばそれにて可なり 必ず我が言に違ふ勿れ」と言ったと伝えられています。

 分際を超えず、墓も石碑も建ててはならない、土まんじゅうを一つ作って傍らに松か杉を植えておけばそれでよい、というのです。

 しかしそれでは大恩を受けた村民たちには申し訳ない気持ちが収まりません。尊徳先生の逝去は安政3(1856)年のことですが、喪が明けた翌年に墓碑建立の動きが澎湃としてわき上がり、ついに未亡人を説得して建立を果たしたのだとか。



 その後明治31年になって、この墓所を神社として祀ることとなり報徳二宮神社が創建され今日に至っているというわけです。

 そばまつりを楽しむつもりが実はこの場所に導かれていたとは、どこの観光よりも心に残る場所が最後に用意されていました。

 ありがたい思いで手を合わせました。  合掌  
 


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