掛川奮闘記

2008年10月23日(木) 081023_生きるのは人の道

 知人から、「二宮尊徳の入門書といえば何ですか?」と訊かれて、迷わず答えたのが「二宮翁夜話」でした。

 これは尊徳先生の高弟だった富田高慶が尊徳先生の語った言葉を思い出しながら書き留めた話を集めたものです。文体が平易であるとともに内容に含蓄が深く、尊徳先生の報徳思想を理解する上で一番の入門書といって間違いないでしょう。

 そんなことを思い返しながら書棚のこの本を手にしてパラパラとめくりますと、「己に克つのが人道」という一節に出会いました。私は感動したページを感動の量だけぐいと折り返すのですが、その折り返しが多いページだったのです。

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 まず原文をご披露します。

 【52. 己に克つのが人道】
 翁のことばに、天理と人道との差別を、よく弁別出来る人は少ない。およそ人のみがあれば欲があるのは天理であって、田畑に草が生ずるのと同じ事だ。

 堤は崩れ、堀は埋まり、橋は朽ちる、これがすなわち天理なのだ。そこで人道は、私欲を制するのを道とし、田畑の草をとるのを道とし、堤は築き立て、堀はさらえ、橋は掛け替えるのを道とする。

 このように天理と人道とは別々のものだからして、天理は万古変わらないが、人道は一日怠ればたちまちすたれる。

 だから人道はつとめることを喜び、自然にまかせるのを尊ばない。そうして、人道でつとめるべきことは「己(おのれ)に克(か)つ」という教えだ。

 「己」とは私欲のことだ。私欲は、田畑にたとえれば草だ。「克つ」とは、この田畑に生ずる草を取り捨てることをいうのだ。「己に克つ」というのは、わが心の田畑に生ずる草をけずり捨て取り捨てて、わが心の米麦を繁茂させる勤めのことだ。

 これを人道というのであって、論語(願淵篇)に「己に克って礼に復(かえ)る」とあるのは、この勤めなのだ。

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 尊徳先生は、天の道と人の道をはっきり区別します。天はだれも区別することはない。だから米や麦だろうが雑草だろうが同じように育てる。だがしかし天の道の通りにしていると田や畑は雑草だらけになってしまい、実りも得られない。

 だから人間は人の道に努めて、米麦と雑草を区別して、片方は残して片方を取るのだ。

 なすがままにするということは天の道であって、人の道はそこから自分たちの幸せをデザインしてそこにむけて努力を重ねるところにあるのです。

 教育などはその典型でしょう。子どもを好き勝手にさせるのは天の道。そのなかから才能を見つけ出してそれを伸ばしてやり、余分なものは取り去ってやる作業、それこそが教育です。

 掃除だって、放っておけば散らかって汚れる部屋は天の道。それを元に戻してきれいにするのは人の道なのです。

 我々は天の道の恩恵を受けながら、人の道に生きなくてはならない。尊徳先生はその教えを強調します。

 そこには何が正しいのか、自分自信をデザインする力と生まずたゆまず続ける力が求められます。人の道を生きようではありませんか。


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