掛川奮闘記

2008年10月21日(火) 081021_心の財布の中身次第

 今日は築地での飲み会に参加。

 築地本願寺は、浅草にあったところが明暦の振り袖火事で焼けてしまい、新しく海を埋め立てた場所に移動することになったもの。その際に埋め立てた土地を、築地と言ったので、まさに築地の発祥は本願寺というわけです。

 周辺の道路はかつての水路だったところが多く、駐輪場のわきに橋の名残があったりして、古地図と照らし合わせるとなかなか面白い風景に出会うものですよ。

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 電車に乗って築地へ向かう途中で読んでいたのが、二宮尊徳にまつわる「二宮先生語録(下)」(現代版報徳全書 斉藤高行原著)です。

 「二宮先生語録」は弟子の斉藤高行が尊徳先生の話を聞いて、それをメモにつづった本で、分かりやすいたとえ話がたくさん掲載されています。

 さて、世の中には良い話を聞いたときに「ああ、そうか!」と膝を叩いて感動する人もいれば、「ふーん、あっそう」とほとんど関心を示さない人もいるものです。

 行政マンの多くはそうしたことに経験があるでしょうが、これは説明の仕方が悪いためで、もっと工夫をして分かりやすく説明をすべきだ、とよく言われます。

 しかし尊徳先生は、報徳仕法という、誰にでも出来る富貴への道を説く一方で、実は聞く側の素養についても容赦ない感想を述べています。

 二宮先生語録(下)の〔329〕話は『大道は君子に説く』という題で、こう書かれています。

「君子は大道を聞くことを好み、小人はこれを聞くことを好まない。ちょうど、人が市場に行って品物を求める場合、財布に金が少なければ、立派な品が店頭に並んでいても、これを見て買おうという気持ちにならない。ただ粗末な品ばかり見て買おうとする。これはほかでもない、財布の金が多いか少ないかによるのだ。

たとえば山の芋は、つるの長いものは根も必ず大きく、根の小さいものはつるも必ず短いようなものだ。だから、小人に対しては興国安民の大道を説くことは無益である」

 大道を説くというほどではないにせよ、話に関心がないのは自分の中に話を受け止めるだけの準備や余裕がないということで、そういうことはよくあり、相手が悪ければ説明も無益だ、と尊徳先生はおっしゃっているのです。

 これを、聞く側の立場として「侮辱だ!」と捕らえるか、それとも「そのとおりだ、これからは人の話を聞ける自分になるようにしよう」と思うか、もそれぞれの心根の持ちよう一つです。

 尊徳先生は別の段で、「富貴を好み、貧賤を嫌うのは人情である。けれども富貴貧賤の原因は、天にあるのでもなく、地にあるのでもなく、また国家にあるのでもなく、ただ人々の一心にあるのだ。(中略)…してみれば、富貴と貧賤とは、要するにわが一心の変化したところものである」とも言っています。

 せめて自分は心の財布にお金を入れておきたいものだ、と思った次第。

 芋のつるなら長くありたいものです。


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