掛川奮闘記

2008年10月05日(日) 081005_愛と敬の感情

 久しぶりに安岡正篤先生の「人世の五計」という本を読みかえしました。

 

 子育ての話が載っていました。安岡先生曰く「子どもは純真だから本能的に父親に『敬』の気持ちを抱きまた敬の気持ちを求めるものだ。そして母親を愛の対象としている。従って子育てを総て母親の愛とするのは間違いで、母の愛と父の敬とが一緒で初めて機能する」とのこと。

 町に流れるラブソングは愛を歌い、「愛は地球を救う」というコピーが流れて世の中に足りないものは愛だとみんな思っているみたい。そして愛さえあればこの世は何とかなるものだと思っているよう。そうかな。

 安岡先生は「愛だけだったら動物の母親だって持っている」と言い切ります。そして人間と動物を分けるものは、「敬」と「恥」だともおっしゃいます。
 動物に尊敬の念や恥ずかしいという思いは見られません。こうした高度な感情こそが動物と人間を分かつ最大の違いなのです。

 だから母親は子どもに対して愛を降り注ぐと同時に、父親は子どもの尊敬の対象とたる存在になろうとしなくては行けないのです。

 人を尊敬するという気持ちを知ることで、人は自分自身も尊敬されるに足る人間になろう、そうなりたい、という気持ちが沸き起こる。
 だから「あの人のようになりたい」という尊敬の念をもつということをしなくてはならない。

 だから昔は歴史上の偉人伝をよく勉強したものです。二宮尊徳、西郷隆盛、徳川家康、東郷平八郎、楠木正成、最近ではイチローかな。そして尊敬ということを学んだもの。偉人伝を勉強しなくなってから日本人の背筋の伸びが少し弱くなったような気もします。

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 多分男女の間柄も同じようなことが言えるのだと思います。愛していればそれはそれで良いけれど、同時に二人の間に互いを尊敬する気持ちが持ち得るだろうか、と自問してみると良い。

 「好きだけど尊敬できるところはない」というのは、愛が消えたときには何も残っていないので危ない感じ。そこそこ好きくらいで、互いに尊敬するところがあるのがちょうど良い。

 また好かれようとするのと同じくらいに尊敬される自分であるように努力をしなくてはならない。片方が愛だけ、尊敬だけというのでもなく、互いが愛と敬を共有できる関係でありたいもの。

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 この本は何度も読んで折り目も付けているのに、改めて読み返すと(そういえばそう書かれていたなあ)と思い出すことばかり。
 
 本当の良書というものは一度読んだだけではダメなもの。書の中身が血液となって体中を巡るくらいでなければね。これも安岡先生の受け売りですが。 {/face_tehe/} テヘ


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こままさ