| 2006年01月11日(水) |
060111_中国二日目 瀋陽の旅 |
中国珍道中の二日目です。
今日は ■瀋陽総領事館で思ったこと ■東北大学をお訪ねする ■大連までの汽車の旅 の3本です。
【瀋陽総領事館で思ったこと】 昨日の分として書きそびれたことを補足しておきたい。
昨日訪ねた瀋陽総領事館は、かつて北朝鮮からの脱北家族が逃げ込もうとして中国当局ともみ合いになった歴史的な場所である。
事件の際には中国官憲が日本領土である総領事館の敷地にまで入り込んで北朝鮮難民を引き戻して逮捕したという姿が向かいのマンションから撮影をされて、中国の無法ぶりや日本の領事館の態度の卑屈さなどがマスコミに取り上げられて、日中関係が一時険悪となった曰く因縁突きの場所なのだ。
今は境界の一枚壁に加えて中国側にもう一枚壁が作られていて、二重の防御態勢となっている。
総領事のOさんと前日の夜におもてなしを受けて歓談をする機会があったのだが、その時の話では、中国でも特に東北部では指導者層にかつて日本で勉強をした親日派が多いために、地域としては日本に共感をしている地区なのだそうだ。
だから抗日デモで上海の領事館が投石で大被害を被るという、外交的には日中双方にとって失態を演じたのに対して、原因となった瀋陽ではデモ隊は30人ほどに留まったという。しかも投石はあったものの、窓ガラス一枚割れたわけでもないという状況は、中国当局側も必死で暴動の拡大を防いだ姿勢の表れであると評価でき、実はそのことは領事館からも相当強い態度で「外交的失態を演じれば大変なことになる」という意思表示を示したということもあったのだそうだ。
それはまさに外交の最前線での一挙手一投足が国益を損なうか、それとも双方の国益に合致するかというぎりぎりの場面なのであって、単純な中国への嫌悪感や日本への嫌悪感を語っていれば済むような気楽なものではない。
そこに日本国の代表となる人達がいて日本の期待も批判も受けながら頑張っているということを知り、かつ思いを向けると言うことがどれだけここの人達のエネルギーになることか。
お互いをより良く知ることこそが友好の鍵であり、そこから生まれる双方の事情を互いに察しながらねばり強く対話を続けることしか歴史も背景も異なる国同士がうまく行くような方法はないと思った。 健全なナショナリズムと狭量なナショナリズムとを明確に区別して、双方にとっての利益が得られるような方法を探り合うことが必要なのだ。
外交という最前線の現場に接して、改めて自分たちが日本という国に生まれ生きていることの意味を感じた。やはり現場を知らないまま感情にかられて本で読んだような知識を振りかざすことは軽々しく行うべきではないのだ。現場の重さをひしひしと感じる、そんな瀋陽の総領事館であった。
【東北大学をお訪ねする】 この日は午前中に瀋陽市にある東北大学で環境を専門とされている陳教授ならびに日本語学科の王教授にお会いして、日本における雪氷冷熱エネルギーの取り組みについて説明をし、瀋陽市におけるエネルギー問題について意見を交わした。
瀋陽ではまだ重工業が中心の社会なので、まだ環境問題に対する意識が充分ではなく、日本の技術がこの地域の発展に繋がるよう大いに学びたいので情報が欲しい、ということであった。
しかし問題はやはりコストであり、この雪氷技術が中国でもコストに見合うものになるかどうかということが鍵だろうというもっともな指摘もあり、そのことについては我々も勉強中と伝える。
陳先生は遼寧省及び瀋陽市の顧問もしているので政府(地方行政機関)にも働きかけて情報を収集するように伝えたいということだった。力強い支援者を得た思いである。
東北大学のここ日本語学部には驚くべきことに20畳以上も広さのある日本間が作られていて、これは王教授が大学側にねばり強く必要性を交渉して許可を得たものなのだそうだ。
こういった日本文化を紹介しようとして下さっている思いを我々も大事にしたいものだ。
【大連までの汽車の旅】 東北大学をお別れして我々は南の大連へ向かう列車の旅に挑戦。大連では東北地方の物流拠点港湾である大連港の現状と今後について意見を交わそうと思っているのである。
北瀋陽駅から大連までは約3時間の旅。途中の車窓の風景に目をこらしてみたが、基本的には平地である大陸の姿と、その間に人の手が入っていないところがなく、とにかく耕地が延々と続くという様に驚いた。 レンガ造りの農民の家と畑、そして時々出てくる高層ビルの林立する都市部という対比。これが現代中国なのだろう。
途中丘のような小山には樹木が少なく、比較的近くに(といっても十年前くらいだろうか)人工的に植林をした後が伺える。おそらくその前は山の木は多くが切られていたことが伺える。地方部での燃料なのだろうか。
これが中国の風土なのだろう。飛行機と車だけではない目線でまた違った中国を見た思いである。
さて明日にはなにがあるのだ〜(続く)
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