掛川奮闘記

2005年08月24日(水) 050824_野生の厳しさと苫駒

 昨日の室蘭市に関して言い忘れたことが一つ。室蘭市のホームページには市内の企業さんのバナー広告が貼られている。収入確保の一策だが、なかなか面白いではありませんか。

 今日は、
■野生の厳しさ
■駒苫の不祥事 の2本です

【野生の厳しさ】
 東京から知人が来て、懐かしく一杯飲みながら情報交換。

「北海道の知床が世界自然遺産に登録されて、一体何になるのかね」とその知人はやや懐疑的。

「北海道では普通の国立公園から頭一つ抜けたと言うことで喜んでいますが、それは単に観光客が物珍しさからたくさん来るだろうと言うことではなく、これを機会に自然と人間との関わり方をもう一度見直すきっかけにして欲しい、という事だと思っていますよ」と私。

 すると山登りが趣味の知人は「そうそう、来年は知床に行こうと言っているんだけど、道内の山に詳しい人に『知床半島の先頭まで歩いていけないの?』と訊いたら『道がありません』と言われましたよ。だから『それなら、春先で残雪がまだ残っているときならどう?』とさらに訊いてみたけれど『それでも無理』なんだって。やっぱり秘境なんだね」と感心している。

 しかし地元では人間と自然との関わり方が間違った方向に行っていると感じている人も多く、斜里町長などもその一人だ。

 私も以前長野で公園を作っていたときに、公園敷地の中に野生の猿が多くいたりツキノワグマも出るようなところだったので、来訪客を条件分けして、フリーに誰もがいけるところに制限を加えることを考えたことがある。

 そのときは、来園者に30分程度のオリエンテーションを受けてもらって自然に対する簡単な関わり方の講習済みの人に対してバッジや手帳で認証を与えて、そのバッジが無ければここから先は行けないというような制度を作ってはどうかと考えたのである。

 来訪者にも自然のことがちゃんと分かっている人もいれば、全くそういうことを考えずに遊び半分で来る人もいて、そのようなグループを自然認識能力に応じて適切に分けるということが必要なのだと思うのである。

 その能力はちゃんと講習などでスキルアップ出来るようなカリキュラムを組んで、素人でも回を重ねたり経験を積むことで知識や行動を身につけて行くというシステムを組めばよいと思うのだ。

 かつて楽しんだダイビングの世界では、段階試験を受けなければ潜らせてはくれないシステムが組まれていて、オープンウォーターという資格が最低のものだ。

 この上に認定組織にもよるがアドバンス、レスキュー、ダイブマスターなどといった資格があって、ダイビング本数も充分無ければ受験も出来ないという厳しいものだ。なにしろ事はまかりまちがうと生き死にの問題になるので真剣さが要求されるのだ。

 ダイビングが面白いのは、潜ったときに必ずログブックに潜った日時や状況などを記録することが約束になっていて、バディというペアを組んだ人やインストラクターのサインをもらって、何本ダイバーかということがそのまま経験の重みに繋がるようにシステム化されているのである。

 だから知床など一定の条件の自然の中を訪ねるときもしっかりとしたインストラクターと一緒に散策やトレッキングを楽しんだら記録を取って、その回数で他人を指導出来たりするような資格を作ることが有益だと思うのだ。

 そういうシステムはおそらく今日の環境保全の観点からは利用者にも受け入れられるだろうし、そのことが新たなビジネスを生み、来訪者のレベルアップにも繋がるという効果も期待出来ると思うのだ。

 登山やキャンプなど、回数をこなすことで経験を積んで行くタイプのレジャーについて、このような資格制度を社会が認知することが必要な時代になりつつあると思う。

 そうしなければ、本人の経験や実力が客観的に明らかにならず、まさに自然と人間の関わり方が乱れてしまうことに繋がって行くに違いない。自然と付き合うには経験故に身に付く眼力が必要なのだ。

 ちなみにダイビングの免許には公的な免許はなくて、民間団体がいくつかあってそれらが似通いながらも異なる免許を発行している。そうやってしっかりした団体とだらしない団体を競争させて、互いを切磋琢磨させるというのが理にかなっているだろう。

 私はレジャーに公的な免許制度などは必要ないと思っている。

    *   *   *   * 

 飲んでいるときに別な知人からは「キタキツネだって、完全に野生のものと人間からもらう餌を当てにするようになってしまったものとは、しっぽの形が変わってしまうんですよ」と教えられた。

「野生のキタキツネにとっての武器はおよそしっぽくらいしかないから、獲物と格闘するときにも大事なんだと思うのですよ。まさに人間が背筋がちゃんと伸びているようなもので、餌をもらうようになればしっぽがピンとしなくなるんです」とのこと。

 そういえば自分も背筋が伸びていたかなあ。

【駒苫の不祥事】 
 高校野球に連覇を果たした駒大苫小牧が部長の暴力事件という不祥事に揺れている。

 学校だったかメディアだったか忘れてしまったが、外からの電話では6割が「子供たちには関係ない話だから優勝の剥奪はしないで」というもので、4割が「不祥事で出場を辞退した明徳義塾高校と同じ扱いにしないと不公平だ」というものだったとか。

 今回の場合は生徒の不祥事ではなく、どちらかと言えば先生の不祥事とも言えるもので、まさに「子供たちには関係ない話」である。

 これで優勝が剥奪されるようなことがあっては、教育的配慮も行き過ぎという意見の方が多くなるだろう。

 どのような状況の下でどのようなことがあったのか、という事実関係を把握することがまず第一だと思うが、その後の判断が「暴力絶対悪」という狭量な思想に貫かれるとすると、暴力肯定とは別に個別の事由について判断する常識力を自ら放棄することになると思うのだ。

 愛のムチなら良くて、感情をぶつける暴力行為ならいけないというのは簡単だが、その瞬間にそれらがどれくらいの割合で混じり合ったものなのか、ということも重要なように思うが、どうだろうか。

 「殴られるようなことをする子供も問題だ」と切り捨てるのも逆な意味でやはり間違いだ。問題を白黒二元論で切るのではなく、社会とはそれらが複雑に混じりあった存在なのだ、ということへの真摯な眼差しが必要。

 そういう意味では教育的な事件だが、はてさてどのような裁定が下るのか。

 興味というようなものではなく、固唾をのんで見守っているのが道民のほとんどですぞ。{/


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こままさ