| 2004年11月11日(木) |
041111_熊本から帰還〜大雨災害発生! |
今日は一日熊本県内を走り回る強行軍の出張です。熊本県内の地理を覚えて掛川へ帰ったのですが、最後にとんだハプニングが待ちかまえていました(--;)。 さて、今日は ■熊本市内にて ■小国町へ、 ■大雨災害、の3本です。
【熊本市内にて】 朝8時半に、今回の創発調査の委員になって頂いている、熊本大学の佐藤先生とホテルのロビーでお会いする。
ビジネスホテルと言っても、そこそこだろうと思っていたホテルはビルの一角のいかにも安い宿というところで、先生から「随分また安いところを選びましたね」と苦笑いされた。 見て選んだ訳じゃないのになあ…(^-^;)。
特に打ち合わせがあったわけではなくて、せっかく熊本に来たのに素通りでは申し訳ないと思ってご連絡をしただけ。12月の実践カレッジでのご参加もよろしくお願いします。
※ ※ ※ ※ さて出張組二人はまずは県庁へと向かう。我々の泊まったホテルは市役所の近くで、夜は賑やかな飲み屋さんも多くその点は良かったのだが、熊本市役所と熊本県庁は結構離れているので、移動にはタクシーを使わざるを得ない。
約束の時間に県庁の企画課長をお訪ねして、創発調査に関連してこれまでいろいろと市長から潮谷知事さんにお願いをした件へのお礼やら、調査の全体の方針と進捗などについて説明と意見交換をした。
この企画課長さんは国交省からの派遣で来られている方で、まだ入庁7年目の若い方である。こういう人と縁ができておくと、いろいろと後に楽しみだ。
県庁としては知事さんからの指示事項でもあるので、「できることがあったら言って下さい」と極めて好意的。ありがたやありがたや。
県庁前の広場には銀杏が何本も植えられていて、黄色に変わりかけた様が美しい。まずは一仕事おしまい。
※ ※ ※ ※
次は午後に小国町へ向かうのだが、そこまではタクシーで1時間半くらいだということだが、時間が少しあるので熊本城だけは見ておこうと熊本城へ向かう。
熊本城はご存じ、加藤清正が7年の歳月をかけて築いた天下の三名城の一つだと言うが、残りの二つは何かとインターネットで検索してみると、「日本三名城は、姫路城、名古屋城、大阪城、熊本城」と書いてあるものが多い。ふんふんなるほど…って、三名城って四つあるんかい!とツッコミを入れたくなる。
本当に三つに絞った情報はないものか、とさらに検索を進めると、「三名城とは、近世の番付表によると、江戸城を別格として、大阪城、名古屋城、熊本城を言う。姫路城が加わるのは近代以後のことである」と書かれているサイトに出会った。 「な〜るほど、そういうことですか」、と一応納得しておこう。
さて、熊本城は豊臣秀吉によって当地を命ぜられた加藤清正が築城したのだが、徳川幕府になり加藤家二代の後は細川忠利が封ぜられ、明治4年まで11代239年間にわたり細川家の居城として続いたのであった。
明治十年の西南戦争の際には攻め上る西郷隆盛率いる薩摩軍を谷干城(たにたてき)率いる熊本鎮台が50日にわたって籠城して守り抜いたという難攻不落の城として真価を発揮したのであった。
しかし残念なことに、薩摩軍の攻撃の前々日に大小天守閣など本丸のほとんどの建物を焼失してしまったのだという。
宇土櫓(うとやぐら)などわずかに残る12棟の建物は国の重要文化財とされているが、天守閣は昭和35年に鉄筋コンクリートで復元されたものである。
中は歴史博物館的な展示がなされていて、往時の熊本を偲ぶことが出来るようになっていますが、やっぱりお城は木造であって欲しいという気持ちがありますねえ。
いや別に掛川城が木造復元だと言うことを自慢しているわけではないのですが…。
建物はともかく、石垣の「武者返し」と呼ばれる曲線などは日本人の建築美学の粋のような気がしますね。
ところで、「実用の美学」とか、材料の限界などの制約条件をぎりぎりまで追究した「力学的合理性の美学」などは見ていてすがすがしく、美しさを感じます。
本来の公共施設もそういう美しさなら良かったのだけれど、最近の現代工学は材料が強くなってしまったために、合理性を失った「身勝手な」美の追究が行われてしまい、その結果トンネルや擁壁に単に絵を描いたりして「美しく、親しまれる公共施設」などといった勘違いに陥ってしまったのだ。
緑化の延長のつもりで、擁壁を緑色に塗るなどといった最低の施設づくりもおこなわれていた。最近はさすがにそういった勘違い施設は減ったように思うが、まだまだあちこちにはびこっているような気がする。
また、橋のデザインを誇らんがために背景の美しい風景を無視して醜悪な橋のデザインを見せびらかすような施設づくりも行われた。
一体日本人の美的感覚ってどこへいっちゃったのかか、と嘆かわしく思う人も多かろうと思うよ、全く。おっと話がずれてしまいました。元へ戻しましょう。
そんなわけで、天下の名城熊本城を見ることが出来て、まずは満足でした。
【小国町へ】 熊本城から小国町へはタクシーに乗ってひた走ることにしたのだが、途中で運転手さんとの会話で「阿蘇山は近いんですかね」と訊いたところ、「小国までならちょっと寄り道と言うところでしょうかね。ただ今日は雲がかかっているから、近くまで行ってみないと火口が見えるかどうか分かりませんね。近くを通るときに火口が見えそうなら寄ってみましょうか」とのこと。
実際に近くまで行ってみたところ、「何とか見えるかも知れませんよ、どうします?」と訊かれたので、「どうせそう何度も来られるところでもないので行くだけ行ってみて下さい」とお願いをする。
阿蘇山の山頂火口に向かう途中のくねくね道から見える植生は、キリシマツツジが藪になっている他は草原で、昔は牛や馬が放牧をされていたのだが最近は畜産の不振でそういうシーンも少なくなっているのだそうだ。 走っている途中での「牛馬優先」という看板がもの悲しい。
さて、頂上の火口は風向きも良く、なんとかその姿を見ることが出来ました。風向きが逆で向かい風だったりすると、下山命令が出て火口付近まで行くことが出来ないのだそうだ。火山はやっぱり怖いのだ。
頂上から見ると、外輪山が遠くにうっすらと見える。かつてはそこまでが湖だった時代もあると言うから、阿蘇山ってすごかったんだな、と改めて思ったのである。
※ ※ ※ ※
さてそこからは寄り道が過ぎて、約束の時間に小国町へ着くのがやや苦しくなった。幸いタクシーの運転手さんがそうとう頑張ってくれて(^-^;)、なんとかほどほどの遅刻で済みました。
小国町では電話では何度もお話しをした担当のM課長さんが出迎えてくれて、早速いろいろなまちづくりの話で盛り上がる。
小国町を地図で見て改めて分かったのは、熊本県で面しているのは南に位置する南小口町だけで、東西南は大分県なのである。
だから熊本県内で合併しようとすれば南小国町しか相手はおらず、こことの合併協議を進めていたのだが、今年の7月に南小国町で行った町民投票で合併に対する反対票が賛成票を上回ったために、合併は不成立と言うことになったのである。
小国町は人口9千人、対する南小国町は人口が約5千人で半分。合併の形式は対等と言うことにして、役場も南小国町へ持って行くということまでは合意されていたのだが、議員の数の特例をどうするかというあたりから話が進まなくなり、最後には住民の審判が下された。
「やっぱり近いと『やられちゃいかん』といったライバル意識的な感情が頭をもたげるんですねえ」とはM課長の弁。どこかで聞いたような話である。
「県内でも合併話が次々に破談になっているところが多いですよ。うまくいったところでも、ひどいのは役場を二年おきに合併前の町に交代するという約束で合併したところがあるくらいですよ」とのこと。二年で遷都するとは驚きの解決方法だ。
「小国町は河川の流域も熊本へ流れず、筑後川の上流という位置づけですから、大分や福岡県なんかの方が意識が強いんですよ。最初は越県合併の話もあったのですが、それは県に潰されましたね。こういう形で合併ができなかったということはやはり県にとっては、『合併できなかった町』という烙印を押されることになるみたいですよ」とやりきれない風。
熊本県ではこことしか合併できない、という状況が破談になれば確かにもう駄目なのだが、単なる好き嫌いによる越県ではなく、流域や文化的シンパシーも感じるような状況における「県」の意味とは何なのか、ということを考えずにはいられない。
「木のまちづくり」や「ツーリズム大学」といったテーマで活気あるまちづくりを進める小国町であるが、財政的には厳しくなることも予想されるところである。
月末には別働隊が改めてヒアリングに訪れてきますので、またよろしくお願いします。日田までお送り頂き、ありがとうございました。
【帰路と大雨災害】 帰りは大分県日田市の日田駅から福岡〜京都〜掛川と電車を乗り継いでなんとか今日中に掛川へ戻る算段をしてある。
日田と言えば、日田杉という銘木の産地であることや水の綺麗なことで知られている。そう言えば、「日田天領水」などという水も売っていたのを思い出しましたよ。
日田からは、特急「ゆふいんの森」4号で福岡へ。特急と言いながら、途中までかなりの間単線を走り、スピードもそれほどは出ていない様子。九州で一番長い筑後川に沿って電車は走るが、上流の水は確かにきれいである。
福岡で弁当を仕入れて京都までは「のぞみ」で無難に戻り、ここで「こだま」に乗り換えて掛川へと向かう。
途中から雨が降ってきたが、熊本では初日の夜以外は雨にあたることがなかったので、「今回は雨にあたらず助かった」と思っていたのも束の間、あと二駅という豊橋駅で足止めを食ってしまう。
どうやら静岡〜掛川間が大雨のために新幹線、在来線共に運転を見合わせているとのこと。
心配になり防災担当職員に電話を入れてみると、「今警戒本部が設置されましたので、職員が三々五々参集中です」とのこと。
「そんなに雨は強いのか」と訊くと、「相当強いです。今回はちょっと川の増水が心配です」とのこと。
豊橋ではそこまでの危機感が感じられないので、いぶかしく思っていたが事態は悪化しているよう。
…と言いながらもこちらは駅から動くことも出来ずに、時々連絡が入るのを待つだけのもどかしい身である。
時々はいる情報では、「10時から11時にかけて市内の桜木地区で時間雨量78ミリを計測しました」とのことで、ちょっとこれは穏やかではない。時間78ミリと言えばもう恐ろしさを感じるような雨の強さである。
案の定、「市内二カ所のアンダーガードで車両水没」や「床下浸水」の報が入り始める。水防団への出動を依頼したが、川の増水がかなり心配な状況でやがて「警戒水位を超える水位を記録しました」との連絡も入る。
11時9分には掛川へ到着予定の最終便だが、たちまち二時間経過。向かいのホームには「のぞみ」も停車していて、最初のうちは停車駅ではないことからドアが開けられていなかったのが、さすがにこの時間になりさらに運転再開の目処が立たないという状況ではドアを開けて乗客が外の自動販売機で飲み物を買ったりし始める。
さすがに2時過ぎからは雨が小降りになってきたようだが、こちらはもう椅子でぐったり。
三時半頃にようやく車両が動き出し、浜松駅、掛川へと向かう。結局掛川へ着いたのは朝の4時10分でちょうど5時間の遅れと言うことになる。
駅ではタクシー待ちの乗客が長い列を作っているが、一向に車は来ないようだ。我々は警戒本部で出動している職員に連絡をして迎えに来てもらったので助かった。
その足で市役所の警戒本部へ向かってみると、「ご苦労様です。一応雨が小康状態で逆川の水位も減少傾向になりましたので本日3時半に本部体制の縮小を行ったところです」との報告。
被害のとりまとめに入りつつあって、鉄道をアンダーでくぐるガード下で車7台が完全に水没しているとのこと。この時点では床上浸水1戸、床下浸水7戸という報告であったが、まだ朝になって明るくなってみないことには被害の状況はよく分からないようだ。
訊けば10時からの1時間で78ミリだったが、その次の1時間でも50ミリの降雨があったと言うからやはり尋常ではない。土木課や良質地域課などの防災担当課はもちろん、公共事業関連の事業課は課長以下精鋭が揃って状況を話し合っている。
一朝事あれば参集して、高い士気を保ちながら事態の把握と収拾につとめるのが市役所職員の責務である。こうなるとこちらとしては激励するくらいしかないのだが、こうなると皆目が輝いているから頼もしい限りである。
朝になると浸水のあった家には担当課から消毒の薬剤が配られることになっている。雨の被害がこれ以上進まないことを祈りながら、5時半に市役所を後にした。
こんな時期にこれだけの雨とは驚きだが、災害は忘れた頃に突然やってくるものだ。緊張を切らさずに行かなくては。
出動してくれた職員諸君には本当にご苦労さまである。
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