掛川奮闘記

2004年10月30日(土) 041030_85歳の集い

【85歳の集い〜もうひとふんばりの会】
 朝10時から市役所で、「85歳の集い〜もうひとふんばりの会】に出席する。

 掛川では、二十歳の成人式以降、十歳ごとに市民が集う会を「年輪の会」と称して開催している。

 人が育つことを人間養成と言わずに人材養成というのか。それは中国の古典に曰く、「木材が年輪を重ねて行くほどに大きく良質になるように、人間も年輪を重ねなければできていかない」ということを示しているのだそうです。

 この十歳ごとの集いを掛川では、孔子の言葉を借りて「而立の集い(30歳)」、「不惑の集い(40歳)」、「知天命の集い(50歳)」、「耳順の集い(60歳)」、「従心の集い(70歳)」として、そこから先は「傘寿の集い(80歳)」、「卒寿の集い(90歳)」と言うことにして実施してきたのである。

 ところがやがてお年寄りたちから、「80歳から90歳までの10年間はハードルが高い」という声が上がり、米寿を目の前にして網一踏ん張りですよ、という願いを込めて85歳の集いを追加して実施するようになったのである。

 生涯学習都市ならではの事業だと言えるだろう。

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 今回の会の該当者は320人で内訳は男性が108人、女性が212人と言うことになっている。またこのうち出席して下さったのは男性が32人で女性が74人の合計106人で出席率は33.1%である。

 これは成人式を除けば、八十歳年輪の集いに次ぐ出席率なのだそうですよ。皆さん楽しみにしているんですな。

 さて、私の役回りは次第の中にある市長講話の代理。15分という時間を与えられて、市長から示されたレジメに従って、お祝いの言葉とこれからの掛川の楽しみとして、今後の市政上の話題についてお話しをしましたよ。

 合併、市街地循環バス、再来年の大河ドラマが「山内一豊とその妻」になったことなどをお話ししましたよ。

 この会に参加して下さるような方は気力も体力も大丈夫だと思います。いつまでも長寿をお楽しみ下さい。

 
【事任八幡神社を訪ねる】
 来週の土曜日に予定している「第二回古事記と琴の夕べ」の打ち合わせのために事任八幡神社をお訪ねする。

 前日にご連絡をしたときには「まあお昼もご一緒に食べて下さい」というお誘いを受けていたのだが、お訪ねできたのは本当に昼時になってしまったので、ありがたくごちそうになりました。

 最近はこういう成り行きに逆らわないようにしているのだ。奥様、ごちそうさまでした。

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 来週の拝殿での古事記語りでは、拝殿を横に使わせていただこうと思います。昨年やった際に「隅の方からは語り手が見えなかったかも」と言われたことが気になるのと、昨年は結局神様に背中を見せて語っていたことが気になったのです。

 またマイクを御奉納して頂いた方がいらっしゃると言うことで、今回はマイクも使えるとのことでした。ありがたいことです。

 また宮司さんにはアメノコヤネノミコトという神様が登場するところで、この神様と縁のある当神社の御祭神のコトノマチヒメについてお話しをして頂くこともお願いをしました。

 こちらの神社は縁起はものすごく古いのだ。

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 そんなお話し程度で打ち合わせを終えるつもりだったのだが、その話題になる前にこの神社の由来や歴史などを聞かせて頂いたのだが、これがまた面白いこと面白いこと。

 事前に宮司さんの息子さんから資料をいただいていたこともあって、かなり勉強されておられると思っていたのだが、お話を聞いていると偶然に書物に出会ったり人に出会ったりと言うことが多くて、神意を感じることも多いという。

 このお社は創建年次が不詳だが、どうも2世紀くらいまでは遡れそうだとのこと。

 言い伝えでは坂上田村麻呂が大同二(西暦807)年に東征の際に現在の社の西側の山の中腹にあった本宮を今の位置に移したと伝えられており、本殿東側の杉のご神木はその際に坂上田村麻呂のお手植えの杉だと伝えられているというから、並の古さではないですぞ。

 さてこのお社は、古くは清少納言の書いた枕草子にも「ことのままの明神いとたのもし。さのみききけむとやいはれたまはむと思ふぞいとほしき」と書かれていて、このことのまま明神とはまさにこのお社のことである。

 近世では国学四大人の一人で浜松生まれの賀茂真淵の「岡部日記」にも記載があり、古くから「ことのままのやしろ」などと呼称されていたことが分かる。

 古くは「己等乃麻知神社(ことのまちかむやしろ)」という記述が見られるが、このコトノマチヒメ様は古事記の天の岩戸の段に登場するアメノコヤネノミコトの母神様と言われているのだが、これは古事記には出てこずに日本書紀などに記載のあることだという。

 戦国時代には戦乱の乱暴狼藉を避けるために宝物や宮司さんたちも分散してリスク分散を図ったらしく、その際の宝物などが近在の社に散見されるらしいのだが、詳しい資料がなくて言い伝えに頼るところが多いようだ。

 遠州には一宮がここの事任八幡神社と森町の小国神社の両方である、と書いている本もあるのだが、どうもよくよく調べてみるとこの戦乱の時期に事任神社から小国神社に分散した歴史もあるようだ。

 歴史はこちらの方が遙かに古いのだが、もうすぐ神社の社格の改訂があってその際のポイントとしては縁起や曰く因縁の稼いでいたポイントの比重が軽くなり、代わりに氏子の数や集められるお金の額の比重を重くするような方向になるらしい。

 神社も氏子が少ないところは大変なのだ。

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 それでも戦後のある時期にはこのお社も雨戸を閉め切っていたり、だれも五本宅に住まいしないという状態になってしまっていたのを、現在の宮司さんご一家が再興して今日に至っていると言うし、そのことに関連して多くのかたから「ここの神社を大切にしないと掛川はもちろん、遠州の発展はありませんよ」と言われたらしく、それいらい再興の途上にあるのである。

 掛川の観光行政にとって、こちらに限らず由緒と霊験ある神社・仏閣は大事な要素なのであるからもっと積極的に掛川を訪れて下さる観光客に情報を提供したいものである。

 古事記よりまだ古くに縁起を持っている神様ってそうはいませんぞ。私も引き寄せられるようにしてこちらにご縁が出来ました。これも神意なのかもしれませんよ。

 
 


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