掛川奮闘記

2004年06月02日(水) 040602_再開発と女子小学生の事件

【体力の端境期】
 喉の奥に大きな口内炎ができて痛い。普通は唇の裏などにできるものだが、ときどき変なところに出るのだ。そういえば昔、喉が痛いと思ったら、のどちんこに口内炎が出来ていたことがあったなあ。
 
 この日記も夕べ書いていて、2時半を過ぎたので諦めました。楽しみにしていた方にはすみません。


【合併幹事会】
 いよいよ6月16日に、合併の調印式が行われるのだが、その進め方や、今後の手続きについて幹事会にて調整をした。合併調印式には静岡県知事さんも立会人になって下さる予定である。

 事務局作成の資料により、さして調整することもなく幹事会は短時間で終了。大きな懸案は次第になくなりつつあるが、今後この手の会は、新市以降対策本部としての機能を強めることになる。

 大きな調整事項は合併協議会で確認されているが、細かな微調整はこれからの課題なのだ。大きな課題の一つは区長さんの処遇で、具体的には区長さんに支払われている区長手当の額が一市二町でそれぞれ異なっていることから、これをどのように調整するのかというのが難しいのである。

 もちろん、それぞれが担っている仕事の質と量にも差があるからなのだが、一つの市になったときには仕事の質と量を揃えて、同じ形で同額の手当という形になるべきものだろう。

 住民自治と言われながら、昨今区長さんへのなり手もなかなかない、という声が聞こえている。住民の皆さん一人一人の力を結集しなくては良い地域は出来ないと思うのだが、言うは安く行うは難し、である。

 いよいよ合併の本格的な作業の段階である。 


【再開発、再開発、再開発】
 市長も交えた再開発担当者との打ち合わせが行われた。

 再開発事業は、一定の面積を持つ土地の上に何階ものビルを建てて高度利用することで、土地を有功に活用するという都市開発手法である。
 その際、土地の権利者には土地代をお金に換算した権利として考えて、新しいビルの床を買ったりマンションに変えたりすることで権利を保証しつつ、余分な床面積を作ってこれを商売に利用することでビルの建設費をまかなうというシステムなのである。

 市民のなかには、「再・開発」という言葉にとらわれて、一度区画整理事業などで都市開発をした後で、もう一度下水道を掘ったりしてバックホウが動いて工事をすることが「再開発」だと思っている人もいるようだ。なかなか言葉で物事を伝えるのは難しいなあ、と思うエピソードではあるが、再開発事業というのは市街地の少ない土地を有効に活用する都市開発事業手法だ、という正しい認識が必要だ。

 この事業が成功するかどうかの最大のポイントは、土地の権利者にお返しをしてなお余りある土地がテナントに貸すか売れるかしてそこからお金を生み出すことで建設費用と管理費用をまかなう、という事業スキームなのであって、建てたビルががらんどうになったのでは単なる空きビルを作っただけのことで、事業は失敗ということになってしまうのだ。

 かつて土地が必ず値上がりをすると信じられていた時代には、皆希望と期待があって、新しいビルを建てれば必ず核となるスーパーやお店が入店してくれたものだが、今では駅前中心市街地という土地柄や商業そのものに勢いがなく、この事業成立性が実に難しいのだ。 

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 今回の我々の事業でも、登場人物が大勢いて、それぞれが役割を持っている。

 一人目は、地権者による再開発準備組合である。ここの皆さんが自分たちが土地を指しだしてどういう事業をしようとしているのかを正しく理解して、自分たちとして本当にどうしたいのか、という意志を固めて頂く必要がある。ただしそのために、どういう条件になるのかを示してあげることが必要である。

 二人目は、ビルが出来たあかつきにその床面を取得して運用する役割を持つ、まちづくり株式会社である。かつてはこの手の民間会社を設立すればそこに国から多額の補助金が入る制度だったのだが、いまこれが三位一体改革のからみで補助金の額がどんどん目減りしていて、全く当てにならない状態になりつつある。
 
 そんな状態で、やはり床を取得しようとすれば銀行からの融資も受けなくてはならず、そのためにはもっと資本がなくてはならない。増資と言うことも必要だが、現在または新たな株主がどういう反応で答えてくれるかが不明である。

 三人目はやはり市の姿勢だろう。ビルを建てるのは組合だとしても、事業を推進するのはやはり市だという認識の人が多いし、やはり一番情報を持ち、将来の地域作りに責任を負うのが市だからである。

 しかし市としても、赤字になってずるずるとお金を投入するような困るので、今回も出来るだけ商業のためのスペースを少なくしてリスクを減らしたいところだが、商業床が本当に埋まってくれるかどうかがやってみなくては分からないので、なかなか踏み切れない。

 さらに、事業成立性を高めるために公共施設のための床を増やしてこれを市が買うことで床面積の利用をしようという計画になりつつあるが、果たして予定の面積に見合うだけの、「作って良かった」という公共施設ニーズがあるものかどうか。

 四人目は、計画をアシストしているコンサルタントとゼネコン。彼らがどれだけ安いビル計画と事業計画を構築できるか、また建設をどれくらい安くできるかも大きな要素となる。

 五人目は国と県だが、これは主に補助金がどれだけ当てになる制度として確立しているかという意味での登場となる。

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 これをさらに複雑にしているのが、床を借りてくれるテナントとして有力視されているホテル事業の問題で、最近市内のホテルWが倒産したばかりで、それを市が公費を入れて誘致すべきかどうか、という点でホテル業界からも不満がたまりつつあるようだからである。

 ホテルが駄目となると、現在の地権者の多くが「土地の権利をホテルの床に充てて貸すことで資産運用をしたい」と考えている構想がおじゃんになるので、そもそも事業成立性の根本が問われることになるのだ。

 一部には、「これまでも掛川の都市開発は組合施工の区画整理であっても市が裏で最大限バックアップしてきたのだから、やはり今回も市がやるべきだ」という意見もあるようだ。

 しかし、区画整理であれば防災のための道路などの公共インフラが結果として整備されるので、現在保留地の売れ行きがはかばかしくないものの、百年の計を考えれば価値ある事業と思われるのに対して、再開発事業は売れなければ価値の下がるがらんどうということになる。都市のインフラとして機能しないのだ。そこが区画整理とは異なる点で、その意味でも市として考えなくてはならないところだろう。

 これまで市長はあちこちで「六月には一定の結論を出す」と言ってきたが、いま少しさらに突っ込んで地権者、まちづくり会社、ホテル、建設会社、そして市と議会という登場人物間の調整を待たなくてはいけないのではないか、と思う。とてもあと一月で全員の意志が固まると思えないのである。

 「時間がないから」とか「これまで積み上げてきた経緯があるから」という理由で仕方なく始めた再開発は大概が失敗している。我々は失敗をするわけにはいかない。もう一歩、もう一歩の調整が必要だ。

 今のままなら、誰が本当にやりたがっているのかが全く分からない、無責任状態で突っ込む形になりかねない。指導者のいない戦争は勝った試しがないのだ。

 

【書き文字の怖さ】
 長崎県佐世保市で、恐ろしい事件が起きてしまった。小学生の女子が同級生をカッターで斬りつけるというものだ。詳しい事情や動機が分からないままに批評めいたことを言うのは危険だと承知の上だが、書き文字の危険性だけは指摘しておきたい。

 新聞やネットの情報によると、加害者の少女は、被害者から自分のホームページにいやな書き込みをされたことを恨んで犯行に及んだ、という見方が強い。

 書いた表現は、書いた本人の思いとは別に読者に届いてしまうから、書き手には全く悪意がなくとも読んだ側の怒りを招くことは多いものだ。

 かく言う私も、昔ある掲示板にちょっとした論争をふっかけてみたところ、それに反対の趣旨で反応してきた相手があって、最初のうちはディベート感覚で相手を言い負かしてやろう、くらいに思っていたのが、段々にエスカレートして行き、最後にはむちゃくちゃ腹が立った、という思いをしたことがある。

 最初のうちは書き方も穏やかなものだが、次第に表現も感情もエスカレートしてしまうのだ。こうなると、相手が憎くて憎くてたまらなくなる、という気持ちもよく分かる。

 特に、相手の顔や性格が見えないと余計に、「何だこいつ?」などと思うことがある。

 今回のケースは、互いに仲良しでチャット仲間ということだが、それだけに逆に自分のしゃくに障る表現やウィークポイントに触れられたりすると、それが文章になって残っている分、特に感情が高ぶってしまったのかも知れない。

 小学生がパソコンを使う、ということが問題ではなく、きっかけは常に使うものの心の中にある、とは思いつつも、やはり自分の感情をコントロールする訓練や、生命というものへの深い洞察力が身に付いていないなどと言った面で、なんとも不幸な事件であるとしか言いようがない。

 若気のいたりでちょっとした歯止めが効かなくて、「やってしまった」ということなのかもしれないが、それにしても、やはり「生きている」とか「死ぬ」とか「痛い」とかいったことに対する現実感というかリアリティといったものが欠如している感じが否めない。

 そしてそのことは、「命を大切にしましょう」とか「他人を思いやりましょう」といったスローガンで頭に入れるものではなくて、近い身内やペットの死であるとか、怪我をすると痛い、といった現実的体験の積み重ねでしか体得できないものだと思う。  

 そういう経験は都会で失われたものの、地方都市にはまだ残っている、と言いたかったのだが、なんと佐世保という地方都市での出来事である。
 日本中が同じ事場で、同じテレビ番組を見て、同じ流行を追いかける。そんなことの一つ一つの積み重ねで、国土が精神において均質になったということを象徴する事件なのかも知れない。

 五全総に謳われる、「国土の均衡ある発展」は精神面では成立してしまったかのようである。ただしそのことは喜ぶべき事か悲しむべき事か分からないのであるが。


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こままさ