掛川奮闘記

2004年05月20日(木) 040520_気を強く持つということ

【バーの長さ】
 最近、「この奮闘記を開いたときに、右側のバーの長さを見るんですよ」という人にあった。
 
 書いてある文章が長いと、バーが短くなって、文章が短いとバーが長く現れるので、まず開いてみて「今日はどれくらいの文章が書かれているのかな」と思うのだそうだ。

 「助役さんが北海道へ帰っておられるときも、北海道の日常について書いてくれることを期待していたんですけどねえ」とも。むむ、掛川奮闘記だから書かずにおいても良いかな、と思って楽をしたけれどまずかったかな。

 ますます長く書かなくちゃ行けないようだ。ひー(--;)。


【行政連絡会議視察】
 午前から夕方に掛けて、中東遠地区の行政機関の長や自治体の助役が参加して、行政連絡会議という名の視察を兼ねた勉強会が開かれた。

 会場となったのは今回浜岡町と御前崎町が合併したことに伴ってこの地区に入った御前崎市で、この1月に完成した港などを視察した。水深14mのバースと言われてもなかなかピンと来ないが、大きな貨物船も扱える港なのだそう。

 残念ながらまだコンテナを積んだ船が一隻も入ってくれていないようで、「今一生懸命ポートセールスをしています」と担当の方から説明があった。
「我が港を使って下さい」という営業のことだが、ポートセールスと言うのかと思った次第。

 今のところターゲットと考えられるものはスズキ自動車の完成車なのだそうで、これがここからどんどんと外国へ向かって欲しいものだ。

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 港には鉄くずが大量に野積みしてあった。聞けば中国などへの輸出なのだそうで、中国の開発需要の大きさをここでも知ることになった。「あれを積むときに鉄の粉が飛び散るものですから、スズキの自動車に降りかかるといけないので、防塵のネットを張っています」とのこと。

 あちらを立てればこちらが立たず。世の中いろいろあるものだ。


【予算査定をしてみると】
 6月補正の内容を審査して、予算担当職員と意見交換をする。

 6月補正では、そろそろ合併に向けて、新市での計画に関わるものや合併後の庁舎の用意などを盛り込んでいる。いろいろな場面で、合併に向けた準備が進んでいる。気を引き締めて準備をすることが大切だ。

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 ついでに来年の予算査定に話が及んで、担当者として改めて来年の予算が組めるかどうかが心配だ、という話になった。それは三位一体改革の更なる進化もあるが、歳入に比べて歳出へのニーズが強いと言うことである。

 結局今の日本社会は、これまでの政権与党のせいもあるだろうが、国民におもねって担税力をどんどんと弱めてしまったのだ。担税力が弱いと言うことは、国民が社会に責任を持って参加する力も弱いということにほかならない、とは全く考えていないようだ。ただただ国民に安易な生き方を勧めているだけである。

 そうしておいて、行政を含む社会サービスへのニーズと言うが、要求は高まる一方である。それらに応えるにはどうしても、財政力が必要だが、それは十分に与えられないと言うことはどうしてもどこかに歪みが向かわざるをえない。

 今はそれが特に福祉サービスの分野で強くなっているように感じられる。本来福祉も含めた社会サービスは、自分一人でやりきれないことがらを社会全体で持ち寄って支えよう、という思想であるはずだ。
 それが最近は、社会サービスという制度だけが前面に出て、本来それを誰が受けるべき存在かということが問われずに、だれもが平等に受ける権利があるということが強く主張されがちなのだ。

 それほど力の強くない社会サービスは、本当に困っている人しか受けるべきではないと思うのだが、それほど困っていない人が楽をするために受けるような世の中になってはいけないのだ。 

 かつてはそれを美風などと言ったのだが、「美風という社会資本を失ってみると、日本は随分と高上がりな社会になった」のだと思う。この「 」で囲った言葉で世の中を見てご覧なさい。そんな例は枚挙にいとまがないのが分かるはずだ。

 それを情けない、と思う美風が消えちゃったんだな、要は。


【気を強く持つ、ということ】
 会議などで市長が、予定時間を過ぎた頃になってからなお、出席者に執拗に意見を求めるシーンがしばしばある。会議の担当者にすれば、次の予定もあったり、市長の予定を心配したりで気が気ではなくて、早めに切り上げよう、切り上げようとするのだが、市長の方は一向にお構いなしで聞きたいことを存分に聞いている。

 そこには市長の「このチャンスを逃せば、またしばらく目の前の人たちの意見を聞く機会もない」という執念のようなものを感じる。だからこそ、もう一言の考えが聞きたくなるのだ。

 自分の予定をこなすことが目的になってしまえば、次の予定は何があるかが自分の課題になっても良いが、より良い市政を行うために衆知を集めて自分の判断材料をとにかく増やす、ということを目的にすれば、目の前の一瞬一瞬が勝負の連続なのだ。そこにおそらく妥協する余地はない。

 気の力が弱くなれば、どうでも良くなることが多くなるのだろうと思う。しかし、「それが大事だ」と常に思っていられるうちは、気を強く持っている証である。

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 「傘を忘れた我が子が帰る時間になって雨が降ったらどうするか」ということが、あるところで話題となった。傘を忘れれば帰りは濡れながら帰って来なくてはならない、というのは当たり前のようだが、しばしば親としては可哀想になって車で迎えに行ってしまうことがあるのではないか。

 それは「子どもが可哀想だ、という親としての愛情の発現である」と言い訳をするかも知れないが、実は本当に必要なのは、濡れながら帰ってくる我が子を待つ覚悟なのではないか。

 親として子どもに与えなくてはならないのは、愛情をベースにしつつも乳幼児のうちは絶対的な庇護であって良いのだが、同じ愛情をベースにすれば、外に出る形は子どもが成長するのに伴って次第に変えて行かなくてはならないものであるはずだ。

 自分の子どもが学齢や青年ともなった時に、親が心を尽くして子に与えなくてはいけないものは、独立の気風だとか、勤勉の価値だとか、奉仕の精神なのであって、親の自己満足でしかない「結果としての子どもの安心や安楽」ではないはずだ。

 結局親も自分自身が安心をする方に安易に傾いているのではないか。子どもに独立や責任を押しつけながら、実は親自信が本当には独立心も持ち合わせていなければ、親としての本当の責任を果たしていないのではないか。 

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 結局、「凛として生きる」ということは単なるスローガンではなくて、「気を強く持つ」ということで、それは「安易に理由をつけて妥協しない」という生き方なのだと思う。しばしば私自身も、時間のない時に決済を求められると、深く考えずに説明者の言うがままに原案通りに認めることがあるのだが、それは「時間がない」ということを理由にして、気を強く持って目の前の課題に立ち向かっていないだけだ、ということに他ならないのではないか。

 どちらが楽な生き方かを考えれば、安易に妥協する方が楽チンなのだが、そうであってはいけないという思想に欠けていることは、実は大人としての強い生き方をする能力がないのと同じ事なんだな。

 アンドレ・ジイドに言わせれば、「力を尽くして狭き門より入れ。滅びにいたる門は大きく,その路は広く,之より入る者おおし。生命にいたる門は狭く,その路は細く,之を見出す者すくなし」(新潮文庫「狭き門」より) なのだ。

 世の中の多くの人は自分が入りつつある門が広いか狭いかも考えることなく、気づくこともないのだ。今の自分の目の前にある門をまずは「広い門である」と自覚できれば、「では狭い門はどこにあるのか」を考えることにつながるのではないだろうか。

 実はこの奮闘記を書いていても、できあがった最後にもう一度頭から読み返せば誤字脱字などは大幅に減るはずなのだ。しかしそれができなくて誤字脱字の山の恥ずかしい文章になってしまっているのだ。要はもう一度読むということをするだけの気を持ち合わせていないだけのことだ。


 心を尽くして気を強く持つことの意味が何であるか。市長の横に座っていて、しばしばそういうことを考えている。

 
【同窓会新聞に投稿したら…】
 私が大学の同窓会新聞に寄せた、報徳に関する文章を読んで下さったという先輩から職場に電話があったのだそうだ。「私はお宅の助役さんの先輩ですが、読んだ文章に感じるものがあったので是非ともお話しがしたかった」とのこと。

 読んだ文章に感心するところまでは行っても、そこから連絡先を調べて、電話を掛けてくるとなるとかなり思い入れもお強かったようだ。私の文章のおかげではありません。報徳という事柄に惹かれたんでしょう、きっと。

 いずれその文章もホームページでご紹介しますのでお楽しみに。

 今日は最後に一度読み返しました。五時は少ないはずです。おや?


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こままさ