| 2004年05月10日(月) |
040510_おだつんでない! |
【部課長会議】 市長から再度、再開発ビルの公共床として持ってくるべき機能を洗い出すよう指示が各部課長全員に出された。一応昨年庁内の会議で、再開発ビルの公共床として求められ、かつ可能性のある機能については報告書もまとめられているのだが、今日やっと再開発事業というものの本質が骨身にしみて分かって来た今、再度そのことの再検証をすることは意義のあることと言えるだろう。
その件についてはもう既に調査終了済みというのでは、流れの速い現代社会にあっては遅れを取ることになりかねない。状況は刻一刻と変化しているのであるから。
できるだけの可能性を追求する必要があるので、今日なお、駅前にあって良かった、と言われるような公共施設は何かをもう一度考えてみよう。
【スローライフのサイクリングで都市再生】 小泉政権の目玉事業の一つに都市再生モデル調査事業というものがある。地方の声をよく聞いて政策に反映するように、という政権の意向を受けた物で、今年が二年目となる。
内閣府都市再生本部からは既に今年の都市再生モデル調査への提案募集されていて、募集の締め切りが迫ってきているのである。
この調査、昨年は竹の丸や報徳社、そしてお城と御殿など「歴史的な建造物を活かした街中再生」という切り口で応募して当選し、竹の丸の再生計画などを全額国費でもって調査して頂いたのであった。
さて今年は、と言うと、どうも市役所職員も新たなアイディアが浮かばないか、もしくは調査をすると事業化しなくてはならないのではないか、という呪縛を恐れてか、「今年は応募しないでおこうかと…」とやや弱気な発言。うーむ、疲れ果てたかなあ…(^-^;)。
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この調査は、基本的には地方自治体が応募をするという形なのだが、実はNPO法人が応募をしても良いのである。そこで、せっかくスローライフのNPO法人が立ち上がろうとしているのだから、スローライフと自転車の組み合わせによるまちづくりと都市再生が出来ないものか、と考えて、NPOの設立関係者に相談をしたところ、急遽集まることになってしまった。
私なりにある程度のアイディアはあるのだが、独断と偏見でも行けないし、なにしろ実際に今年も当選したならば、NPOの皆さんにもご協力をいただかないと行けないので、無断で応募をするわけにもいくまい。
打ち合わせは夜9時からだというのに、7人ほどが集まってくれて意見交換を熱心に行う。基本的には応募をする方向でよいだろうというもので、一昨年も行った、天竜浜名湖鉄道に自転車ごと載せたり、センチュリー・ランと言って、160kmの自転車レースだったり、広く広範囲から自転車愛好家に訴求するようなイベントソフトの可能性を調査したり、近くではママチャリで地元の人が市内の神社仏閣や歴史的財産を訪ねるというルート選定もあるだろう。
「自転車によるまちづくり」という看板を掲げる自治体などもあろうかと思うが、多くは自転車道路網や標識を整備して、まちづくりが成れり、としているところが多いのではないか。
しかし実は、今日的にはハード整備も大事だが本当に自転車を歓迎する風土だとか、自転車に乗りたくなるモチベーションを高めると言った、仕掛けやソフトの方が軽んじられているのではなかろうか。まちづくりの成功はハードの量や質ではなくて、そこに参加する人々の心の状態に負うところが多いように思われるので、そうだとすれば、ひとびとに動機付けを行えるようなソフトには何があるか、というのは面白いテーマになりうると思うのである。
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「北海道で『ツール・ド・北海道』というツール・ド・フランスを真似たようなイベントがあるのですが、どうもいまいち地元に根付かないような気がしています。これはどういうことが原因なんでしょうかね」と私。すると自転車のセミ・プロから 「やはり自転車を歓迎するという歴史というか、風土がまだ日本にはないんじゃないでしょうか。フランスなどは自転車の一行が到着すれば、それはもう村を挙げての歓迎ですからね」
「そういうのが日本にはない、と…」 「まだないでしょうね。ラリーをするということの価値って、そこのゴールでワッショイワッショイ迎えてくれることにあるんですけどね。以前山村礼子が、『パリ・ダカのアフリカの町でもやはり、何か来たぞー、という雰囲気のところがある』って言っていましたけどね。」
するとその話を聞いていた建築家のTさんがやたら元気になって、「そりゃ、鮎解禁のときの佐久間町の盛り上がりに似てますね。佐久間町では、鮎解禁の日には小学校を駐車場に解放ですもん。花火も上がるんですけど、一発上がると、次に上がるまでにビールが一杯飲めちゃくらいの間が空いたりするんですけど、それでも町中がお祭り騒ぎなんですよねー」
多分きっと、よそから人が大勢訪ねてくれることで浮かれて嬉しくなってしまうということなのかな。北海道ではこういう状態のことを方言で「おだつ」と言って、葬式だというのに人が大勢いて浮かれている私の子ども時代には「これ!おだつな!」と怒られたものだ。
しかしこういう【おだつ】ような雰囲気もなくて、妙におすましをしている人や町というのもしらけてしまう感じだ。
まあ私なんか、一生「おだって」いるような気もしますがね。
【今年も天竜月のお茶】 以前市役所で一緒にお仕事をしたSさんから、新茶が送られてきた。Sさんは天竜市の月というところが在所である。「月」とは随分面白い地名だが、その昔は平家の落人伝説もあるとか。こういう歴史的因縁の深さは、北海道生まれの私には到底理解できない範囲の出来事である。
このSさんもご多分に漏れず、自家用の茶畑をお持ちで、ここで大層美味しいお茶を取っているのである。Sさんのお茶を特に美味しいと思うのは、わざと普通蒸しか浅蒸しにしてくれているところで、以前にこのお茶を知人に飲ませたところ、「あ、懐かしい。昔の煎茶ですね」という反応が返ってきたことがあった。
まち針のように、ピンとした茶葉には最近とんとお目にかからなくなった。それだけ深蒸しのお茶に人気があって好まれているために、そればかりが売られるようになっているからである。そのため現代人は深蒸しのそれも「やぶ北」という品種のお茶を多く飲む機会が増えて、その味しか知らないという状況も多いように思われる。
蕎麦でもお茶でも、一つ自分自身の世界を決めて徹底的に追究してみると、いろいろな違いが段々に分かってくるもので、そういう「審美眼」や「眼力」を養うと言うことを現代人は少しおろそかにしすぎているような気がする。
本を読んで知識を増やすことももちろん大事なのだが、その先には自分自身の原体験としての眼力を養うことを大事にすべきだと思うのである。もちろん、この原体験と読書を通じた知識とのバランスも大事で、どちらか一方だけではやはり偏った物の見方になってしまうことだろう。
お茶もいろいろと試してみると良いのだが、地方ではそもそも試すほどにバリエーションが得られないという限界もあることだろう。農産物のバリエーションを楽しめるのは、産地の特権と思えば、都会に住んでいなくてもちょっと気持ちは愉快な気もする。
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