| 2004年02月02日(月) |
040202_仏様の指 |
【月曜の朝は部課長会議】 今日も月朝恒例の部課長会議。
いろいろな話題の後に、昨日の生涯学習推進市民大会に関連して、何か発言があるか、と市長からの指名があった。うちの市長はときどきこういう突然の指名をするので、常に何を語るかを考えていなければ行けないのだ。
そう言う意味では、毎日その日の感想や思うところをまとめて奮闘記をつけていることは大変有効である。その日一日のことを復習しておけば、翌日の突然のテストには予習になっているのだから。
「予習」と「復習」はいくつになっても、社会に出ても大事なんだな。もっと早くこういう習慣を身につけておけば良かったよ、まったく。
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そこで私の発言。「昨日の講師の話の中で、『ボランティアの輪を広げようとしても、そういう心のある人の人数にはどうしても限りがあって、なかなかその輪が広がらない。そこでそういうボランティアの実績を価値化して、地域通貨として用いる試みをしているところもある。」
「『自分がボランティアをした時間を通帳につけて、自分がボランティアをして欲しい時間をこのなかから出す、というシステムだ。しかしこれにはそういうものではないのではないか、という異論もある』というお話でした。私はこれを大変興味深く聞きました」
「つまり、崇高な精神で市民を鼓舞しても、それに呼応してくれる人には限りがあると言うこと。そして、ある程度の利をぶらさげなければやはり人は動かないという現実です。そこで思い出されるのが報徳の心ではないかと思うのです」
「つまり、二宮尊徳の言った『人はすべからく二つの門をくぐらなくては成らない。すなわち経済門と道徳門である。経済なき道徳は寝言である、しかし道徳なき経済は犯罪である』というものです。幾ら理念を訴えても、経済的な要素がなければそれはまだ完全なものではないのです」
「そう言う意味で、ボランティアを価値化して自分のボランティアした分を他人のお世話になる、という考え方は現実的な対応と言えると思いますし、そこの根っこに報徳の心を感じるのです。この具体的な実践は、ボランティアに限らず、他の分野の市政を運営する上でも大いに参考にすべき だと思います」
やはり少しは利益がなければ多くの人々の人心を動かすことにはならないのだと思う。この現実感がなければ行政も上手には行えないのだと思うのだが…、どうですかね?
【教師とは…】 会議の後で、教育長さんと立ち話。
「そう言えば昨日の生涯学習推進市民大会で、百マス計算の話とか、音読の効果などを講師が言っていたのですが、これを我が市の先生や学校が実践をしないというのはどういう理由なのでしょうか」と訊いたのだ。
すると教育長さんからは「教育上有効とされるメソッドは次から次へと出てきて、ある種流行に近いものがありますね。その内容を心底理解して実践するにしても、学校単位で推進するというのは教育方法の押しつけになると捕らえられそうで、難しいですね。そうなると各個別の教師の問題になるのですが、これは教え方ですから教師一人一人の自覚の問題でしょうかね…」というお答えであった。
良いことは多くの人がいっているのだが、実践しなくては意味がない。一方でこういうメソッドにしても、評価が完全に定まっているものでもなくて、これらを否定する人もいるわけだ。 子供たちを使って実験をするわけにもいかないし、教育が結果論だとすれば、新しいメソッドの導入は難しいということになるのだろうか。
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すると今度は教育長さんからの話題提供。
「助役さんね、大村ハマさんという教育者が「神様と荷車」という話を言っていましたよ。ある男が荷車を引っ張っていて、それがぬかるみにはまってしまい、なんとしても抜け出すことが出来ずに、うんうんと頑張っている。それを神様が空の上から見ていて、見えない手でチョンと押して、手伝ってあげると、荷車はすっとぬかるみから脱出できたのです」
「男は『俺が一生懸命頑張ったので、ぬかるみからやっと出られた』と意気揚々として荷車を引っ張っていきました。教師というのは、この神様のようでなくてはならない、と大村ハマさんは言うんですね。『僕はあの先生の指導を受けて感動した』とか『僕はあの先生の薫陶を受けた』という話は多く聞きますが、教師が前面に出て生徒を引っ張って行く、というのがベストの教師ではない。気づかれずにそっと見えないところで手助けをするのが本当の教師の姿ではないか、と言うんですよ。どう思いますか」
うーむ、なるほど。指導力の優れた教師というのはそれはそれで立派なものだが、そういう看板がないことが駄目ということでもないのだなあ。
本当の教師の姿とは何か。反面教師というのもあるけどなあ。もっとも、そういう面での良い教師には出会いたくないもんですが…(^-^;)。
【市長査定】 午後からは一日、市長査定で、今日の分が終わったのは夜の11時半。
市長査定の最中に、再開発の話になり、そこから例の下河辺さんの話題になった。
「助役さんね、先週下河辺さんのところをお訪ねしたときに、もう一度訊いてみたんだよ。『前回助役とお訪ねをしたときに、いろいろとお話を伺って、助役も随分と感銘したのですが、一つだけ下河辺さんがもう一度ミニバブルが来る、というお話だけは理解できなかった』と言っていましたよ、訊いてみたんだ」
「すると下河辺さんが、『そうですか、それはちょっと説明が不足していましたかねえ。私が言ったのは、土地ニーズの集中が再び来るということですが、その対象となるところは東京と、地方で言えば政令指定都市、そして県の県庁所在地ということです。こういうところでは中心地に対して集積が再び起こって、土地ニーズが高まり、ちょっとしたバブルの様相を示すだろう、ということです。しかし地方都市においてはそれは成立しないでしょう。しかし、こういったいくつかの都市でミニバブルが起きる、ということはそれだけで日本経済にとっては地方のマイナスを補って余りあることになるでしょう』ということらしいよ」
「それなら少しは分かるような気がしますね。しかしそれでは掛川はマイナスの方にカウントされてしまうのではないですか」
「うーん、そこが問題だがなあ」
神様の言葉をもう一度深くかみしめた次第。大きな都市への集中が再び起こりそうな気配だが、それにしても我が市の近傍の浜松市でも再開発ビルがひとつ危ない、という事態になっている。あれだけの都市でもうまくいかないものはいかないものだ。
さて我が市の再開発計画はいかにあるべきか。これが今年最大の政治決断だ。
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