掛川奮闘記

2003年04月02日(水) 030402_がんばれ志戸呂焼

【県内旅行に出発】
 妻が三月の終わりからこちらへ来ていたのだが、からやっとのことで休みを取れることになって、ぶらぶらと風任せの旅をしてみることにした。

 そこでまずは大井川の遙か上流に位置する寸又峡(すまたきょう)という渓谷を訪ねてみる。ここには、「夢の吊り橋」という名所があるらしくて、妻はなんとしてもここに行ってみたいのだと言う。

 天気が雨なのがちょっと残念である。
  
【寸又峡へ】
 寸又峡は、南アルプスの南端部、奥大井県立自然公園にある渓谷である。

 車で大井川筋に沿ってひたすら上流へと向かう。途中の道は大井川の右岸左岸を橋で渡り渡りしながら進む。途中の道筋には桜並木が満開で、それはそれはきれいである。

 ソメイヨシノの美しさはやはり北海道にいたのでは分からない。今日を旅できて良かったと思う。

 寸又温泉郷には11時くらいに到着した。いけるぎりぎりまで進んで行き、おみやげ屋さんの駐車場に車を止めて、少し歩いてみる。いったいどこに何があるのかもよく分からないまま来たので、まずはその周辺の地図看板などを見て、情報収集である。

 「夢の吊り橋」はどうやらここから徒歩で25分くらいのところにあるらしい。「行ってみる?」という妻の問いに、「うーん」と一瞬尻込みした私であったが、「行きたいよー」と言われて、行く気になった。

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 寸又峡は、大間ダムという中電のダム湖の周辺の渓谷で、水が緑色で幻想的な雰囲気を漂わせている。

 傘を差しながら吊り橋の見えるところまで到着し、階段を下りて吊り橋まで行く。

 吊り橋は歩く幅が足場板二枚程度の約50センチくらいで、長さは200mくらいである。観光シーズンで来客の多いときは、一方通行となり渡った後は道をどんどん上ってゆき、上流に架かるもう一つのアーチ橋である飛龍橋を渡って帰ってこなくてはならず、これはこれで小一時間かかるルートになるのだが、橋は客が我々以外誰もいなかったので、橋を往復することができた。

 橋は吊り橋で、振れ止めのワイヤーがあるとはいえ、揺れるものなので二人きりで渡っても怖いくらいである。これが10人も渡ったらどうなることか。

 橋を堪能して温泉郷まで戻った頃にはお昼も過ぎていて、近くのお店で蕎麦を食べる。

 「ここの観光シーズンはいつですか?」と店の女性に尋ねると、「秋の11月ですね。あ、それでも昨日は観光バスが何台か来ていましたよ。それも東京からのツアーでしたけどね」とのこと。

 ピークには一日にバスが20台くらいは来るそうで、途中の道が乗用車一台分しか幅のないことを考えると、ドライバーが大変そうである。

 おみやげなども買って寸又峡を後にしました。今度はいつこれますか。



【志戸呂焼を訪ねる】
 やがて車は金谷町まで降りてきた。

 ここで目についたのが、志戸呂焼の看板である。志戸呂焼は、静岡県下にあって全国的にその名を知られる「志戸呂窯」で焼かれた焼き物のことである。

 このあたり一帯の金谷宿が古くは志戸呂郷と呼ばれたことから「志戸呂焼」と言われるようになったのである。

 志戸呂焼は、そもそもは天正年間(1573〜1591)に徳川家康がこの地に瀬戸の陶工を連れてきて窯を開かせたのが始まりと言われるが、これを有名にしたのはなんと言っても、小堀遠州である。

 小堀遠州は茶の世界、造園、建築…と様々な方面で才能を発揮した教養人で、日本のレオナルドダビンチとも言われるくらいの才人であった。

 造園の世界でも小堀遠州と言えば、造園史にその名が燦然と輝く通人として知られている。

 この茶人大名小堀遠州が、この志戸呂窯の作品を愛し、全国から7つの窯を選んだ「遠州七窯」の一つにこの志戸呂窯を数えたことからこの名が天下に知られるようになったと言われるのである。

 
 しかし、今日では織部や備前に見られるような、一目で「あ、これは志戸呂焼だ」と分かるような独特な特徴に乏しく、作品として一つの世界を形成するに至っていないようである。

 この日訪ねた二つ目の窯では作品を作っていた若主人と少し話し込んだのだが、この方もやはり今後の志戸呂焼の今後がまだ定まっていないことを気にしていた。

 話では江戸時代には志戸呂焼は庶民の使う日常の道具としてよく用いられたそうで、東京都庁を建設する際にはその場所から大量の志戸呂焼の道具が出土したのだそうである。

 しかもよく調べてみるとそれらは陶工が月に400個以上作らないと商売にならなかったような価格だったらしくて、そのためわりと手をかけていない、荒い造作だったとか。

 実際、そのときに出土した徳利の割れた口の部分を見せてもらったが、釉薬が口のところにしか掛かっていないもので、口に釉薬を付けるのが精一杯でとにかく急いでたくさん作らなくてはいけなかった当時の姿がそこに偲ばれるという。

 そのこと自体が面白いですね、と話すと、若主人も「そうなんです。そこに何か道があるようにも思えるのですが…」と言いつつ、まだその姿が具体的にイメージできないもどかしい思いがあるようであった。

 結局何一つ買い求めるわけでもなく辞去したが、陶器の世界の大変さをかいま見た思いであった。

 がんばれ、志戸呂焼!なのである。


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こままさ