Spilt Pieces
2009年07月24日(金)  溺れる
時々、時間が見えなくなる。
正確には、しょっちゅうかもしれない。
落ち着けば、きちんと泳げると思うのに。


例えば、目の前の洗濯物。
5分で片付けれらるはずのもの。
それを、数日放置する。
それが、負担になる。
「今日の予定」と、思わず組み込みたくなるくらい。
そしてその5分ができない自分を恨めしく思う。
ほかでもない、自分自身が。


時間の使い方が分からなくなるのは、大概、
そういう小さな積み重ねで、軽くパニックするからだ。
どんなものであっても、「しなくては」と思うと、
心のどこかに引っかかる。
なんて小心者なんだろう、と思いながら。


数年前、ピアスを開けたとき。
今までの自分がしないことをしたならば、
きっと少しは見える世界が違うのでは、などと、
安易なことを思ったような気がする。
(今となっては、動機などうろ覚えだから、
後付けかもしれないが)


でも、分かっていなかった。
多感な時期にある者が、しばしば間違えるように。
年甲斐もなく、未だに間違える自分のように。
何から何まで一本貫いて、
結局私は私なのだということ。
その付き合い方を、学ぶ努力から逃げていたこと。


原因は、積まれた洗濯物でもなければ、
たまった日記でもなく、勿論ピアスの有無でもなく。
パニックになるのならなるということを認め、
ではどう段取りをすれば心が晴れるのか、
落ち着いていられるのか、見栄を張らずに済むのか、
孤独を好むフリをせずにいられるのか、
素直に泣けるのか、感情と向き合えるのか、
…結局のところ、現実を見る勇気、もとい、
傾向と対策の問題。


予定表を、悉くひっくり返すのが好き。
書きたい文を、次々変えていくのが日常。
一つのところに落ち着かない自分を、
悲しいと思いながら、それが案外落ち着くのだということ。
寂しい寂しいと重ねて言う割には、
それに慣れていく自分を案外上手にイメージできること。
不思議。
分かったところで、具体的な対策ができるほど
できた人間になどまだまだなれないのに。
それはそれでいいのかもしれないと、たまに、
思える日があるのだから。


上手に泳ぐ方法を探していた。
今も、探している。
それは、自分ばかりなんじゃないかと思っていたとき、
たまに思ってしまうとき、いかに恵まれていようとも、
自分が一番悲しい人間のように思えてしまうけれど。
「形ではない、よそから見たって分からない」
そんな言葉を、今も私はよく発するけれど。


だけど時折、心を温かく持てる瞬間に、
誰かの弱さが見えた瞬間に、
誰かと世間との付き合い方を知った瞬間に、
誰もが溺れているんじゃないかと気づいて、
(それとも、思い込んで)
暴れるのをやめてみたりする。
すると意外にも、ふわふわ浮けたり、
曲がってしか泳げないと思っていたプールが、
実は海だったと知ったり、
空が、結構広かったり、
そんなことを、知ったフリして、
自由なつもりで笑うのだ。


解決のできないことがある。
どうにもならないことがある。
何度考えても、変えられなくて、
何度思い直しても、結局私は自分勝手で。
だけど、もしかしたら、
溺れていたのは浅瀬だったと、
いつか知る日が来るのかもしれない。
そうであったらいい。
結構、案外、意外と、
誰もが、
足をついて立てるのかもしれない。
そうであったらいいのに。
Will / Menu / Past : Home / Mail