Spilt Pieces
2009年08月06日(木)  格言
たまに、「自己啓発」というジャンルに属するような本を買う。
大抵、書店で立ち読みをして、首を縦に振る箇所が多いようなもの。
買ってきた当日若しくは翌日くらいまでは手元すぐそばに。
その後は、いつの間にやら本棚の隅の方に。
隙間を探そうとするとき、前にも似たような本を買っていたと気づく。
気づいても、また買ってしまう。
気持ちがぶれているときに。
何となく、弱っているときに。
手に取るジャンルが似ているのだから、そろそろ気づけと自分に言いたい。
それでも、そんなとき、きっと思考回路はある一定の枠を抜けられないのだと思う。


好みの装丁。
好みの文章。
好みの言葉。
押しつけがましくなくて、いつも人の目を気にしてしまう私が抵抗なくレジへ持っていけるような、ごく「一般的な」雰囲気の本。
本は、中身が表紙と裏表紙に挟まれていると、結構忘れてしまう。
そんなことを言って、たまにワードで気に入った言葉を書き出す。
机の前のコルクボードに貼る。
【「そのうちやる」「いつかやる」と言う人に、「いつか」は決してやってこない】
色んなところで聞いたような言葉が、一年くらいそのままになっている。
見ては、目を伏せる。
自覚をしている。
それでも、見たくない。
見られない。
かといって、剥がすほどには諦められない。
そんな微妙な私の気持ちを表すかのように、紙が少し丸まってきた。


ずっと、言葉は、受け取るタイミングによっては胸に響き、または通り過ぎていくものなのだと思っていた。
だから、本を買う瞬間は、多少悩みはしても「今の私には言葉を受け入れるだけの余裕がある」若しくは「外からの言葉がないと自分を鼓舞できない」と思っているか、どちらかの状態にあるのだろう。
つまり、自分にとって、響くと信じたタイミング。
意識的か、無意識的にかはともかくとして。


だけど…と、思う。
本の著者と自分とでは、当然のことながら経験や生き方ばかりではなく、本当に、何もかもが違う。
周りにいる誰かと同じだと思うことがないのと同じく。
ある人があることに気づく瞬間。
その場所と、経験と、流れた時間と、何もかもが、違うのに。
言葉だけを受け入れられると思うだなんて、なかなかどうして。
どういうことだ。
言葉の通りに実行できない自分を責めるだなんて、さらにおかしい。


何もかもを経験することなどできやしない。
私という人間は、私という生き方以外したことがない。
だから、時々は、結果を先に見て、それに辿り着けるように思考回路を変えていく試みをするのも悪くない。
それでも結局のところ、自分の心の中にあって、自分を支配し、動かしているのは、丸まったコルクボードの上にある紙ではなくて、本棚に溜まっていく誰かの言葉をまとめた書物でもなくて、どこにも記すことのない、自分の中にある気持ちや考え方。
実感を伴って得るものなどそうそうあるものではないから、当然のこと、30年近く生きてきても、もしかしたらたった30分で読めるかもしれない本に書いてあることの数分の一しか、分かっていないのではないかと思う。
それでも、何よりも強く、自分を動かすのは、私自身が得た言葉。
誰かが得た言葉を、言葉だけで分かったつもりになっても、普段の生活の中で私には何の意味もないのだなと思う。


かつて、どうしても伝えたい気持ちがある相手がいた。
傷ついていたその人には、何を言っても駄目だった。
無駄なのではと思って、諦めようとしていたら、他の誰かが、「何年も先に、伝わればいいことなんじゃないか。もしくは、一生伝わらないとしても、伝える意味のあることなんだと思う。本当に大切なことは?」と、穏やかに私を責めた。
責めてくれた。
そのとき、私は、その人の言葉を心の底から実感していたわけではなかった。
むしろ、何を言っているんだろうと思った。
それでも、他になす術のなかった私は、信じたフリをして、とりあえず粘ることにした。
何度もへこたれながら。
これが私のしたいことなのだろうかと繰り返し迷いながら。


言葉を、実感したのは、幸いにして一生が終わる頃ではなかった。
ほんの数年後だった。
生きてくれと言った相手、泣きながら私を責めた相手が、「あの頃、諦めないでくれて、ありがとう」と、言ってくれた。
だから私は、もしも同じような立場の人を見かけたなら、当時友人が言ってくれたように、「何年も先に、伝わるかもしれない。それでいい」と、言うだろう。
でも、きっと相手は、当時の私のように、何を言っているんだろうと思うに違いない。
その場では、納得した顔をしながら。


使い古されたフレーズかもしれない言葉を、自分の実感として得ることが、どれほど大変なことだろう。
それをようやく得て、誰かに伝えたところで、「ふーん」と言われるのがきっと関の山。
それでも、何かを得たフリをするよりも、自分で得た方が、ずっと尊い。
感じることの、なんと難しいことだろう。
言葉にすると、悲しいほど陳腐なことも、多いのに。


もっともらしい言葉を、さらさらと言うとき。
自分は、あまり何も考えていないのではないか。
そんな疑惑さえ生じる。
全てを感じることも、それを全て言葉にすることも。
不可能だということは勿論分かっていることだけど。
そんなにのんびりも生きられないこの性格だから、やっぱり、実感していない言葉をもっともらしく発して暮らすことの方が多いのかもしれない。


そうは言っても、やはり。
何かを決意するたび、同じような本ばかり集める癖は、どうもよくない。
それだけは、思う。
それでも買ってしまうのは、私の弱さなのか。
秀逸なコピーライターがいるからなのか。
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