Spilt Pieces
2003年05月03日(土)  電車
電車に乗った。
世間ではゴールデンウィークらしい。
行楽に出かける家族連れの姿をあちらこちらで見かける。
いつもは座れる土曜の電車。
生憎と満席で、東京に着くまで隣の人と肩がぶつかるような状態が続いた。


汗やら香水やらの匂いに苛つきながら時間を過ごすのもつまらないので、いつものようにヘッドホンをして肘を縮めながら本を読んだ。
半袖の客も多い。
長袖のスーツに身を包んだ私の顔は、いつの間にか汗が出始めていた。
ふと、寄りかかっていたドア付近で席が空いた。
お年寄りも多い。
そのまま本を読むことを続けていると、子どもを連れた母親が鞄を置いて席を取った。
その子どもを座らせるのがさも当然かのようだった。
その親子連れは、目的地に着くまで私の右の視界をぼんやりと占めていた。


しばらく乗っていると、子どもの座った2人がけ、席のもう一方が空いた。
母親は、幼いもう1人の子どもを膝に乗せて、自分もすぐさま座った。
傍にいた私の背中に、はみ出した母親の手が何度もぶつかった。
それでも、母親は手を引っ込めようとすることもなく、子どもも騒いでいた。
私のすぐ左斜め前では、80歳近いと思われるお年寄りが身を小さくして立っていた。
何だか気に入らない。
電車に乗るたびこういうことが目に付くのは、きっと普段私があまり電車に乗らないからだろう。
慣れた人には、日常茶飯事のこと。
逆にそこに問題を覚えもしつつ。


目的地に着くと、駅の前を同じ試験を受けに行くのであろうスーツを着た人々がポツリポツリと歩いている。
スーツ姿の大学生たちは、それぞれ整った身だしなみをしていた。
少し汗ばむ陽気の中、時折吹く風が心地よい。
道端に咲く花に目を配せつつ歩いていると、私のすぐ目の前を歩く男子学生がそれまで手にしていたストローつきの空コップを手近にあった自転車の籠に放り投げた。
カランと音がして、その空のコップはそこに落ち着いた。
彼は、何事もなかったかのように凛々しい格好で前を歩いていく。
やりなれた手つき。
その後受けた試験で、彼はどれほど立派な言葉を並べ立てたことだろう。


帰りの電車、始発駅で発車前に行くとボックス席に座るところを1つ見つけることができた。
「ここいいですか」
尋ねると、前に座っていたサラリーマン風の男性は、言葉を発することなく一瞥をくれただけだった。
もし連れの人などがいるのであれば、きっと何か言うはずだから、と思って席についた。
行くときに読んでいた本の続きを広げる。
前で、プシュッと軽快な音がした。
先ほど声をかけた男性が、黄色い文字でグレープフルーツと書かれた缶チューハイを開けていた。
発車の数分前、ボックス席左斜め前に置かれた鞄の主が帰ってきた。
彼の手には、生ビールの缶。


前の席に座った彼は、降りるときに空となった缶を座席の下に置いていった。
こういう光景をよく見る。
高校生がやっていることもしばしば。
大人がどんな言葉を投げても意味がないのも当然であるかのように思われた。
身近に手本がいたのでは、どうしようもない。


斜め前に座った彼とは、1度外の景色を見ようとして窓の方へ視線を移したときに偶然目が合った。
何をするでもなく、ただぼんやりと寂しそうな表情が目に浮かんでいたように感じられて、私は半ば露骨に目を逸らしてしまった。


電車に乗ると、色んな人の生き様の一部が現れているようで時に気分が重くなる。
試験後、一つ一つの問題について友人へ偉そうに講義する学生。
ドアが開いても5、6人で固まったまま道を作ろうとしない女の子たち。
どの姿を見ても、自分と関係ないとは決して思えない。
いつか私も、これらの光景を見ても何とも思わなくなるのだろうか。
しばしば「あなたは真面目だから」と言われる。
だけどそうじゃない。
私は、単に慣れていないだけ。
きっと、他の人たちは諦観にも似た慣れで誤魔化しているだけ。
そう思っていたいだけかもしれない。


昔、確か親に、子どもは体力もあるし元気なのだから立っていなさいねと言われた。
そして小学校の道徳では、「席を譲り合いましょう」と教わった。
それらのことを子どもに教えるべき立場にある親が、率先して子どものための席を確保しようとする。
行楽帰りならまだしも、出かけてすぐと思われる朝の電車であってもそう。
こう考えることが「古い」のならば、この国の考え方としての文化は今どこにあるのだろう。
新しいというだけで非難などするはずもないし、柔軟性という面では変化に賛成だが、取捨選択のできないことを新しさを理由として誤魔化すのだけは我慢がならない今日この頃。
Will / Menu / Past : Home / Mail