Spilt Pieces
2003年04月23日(水)  報道
愛知県の会社役員が誘拐・殺害されたという事件。
計画的で、残虐な犯行。
これを行った犯人が、社会的にどんな制裁を受けてもそれは当然のことだと思う。
でも、報道の仕方には納得がいかない。
同じことを繰り返す可能性がないとは言い切れない。


もう何年も前のこと、松本サリン事件が起きた際、容疑者扱いされた人がいた。
どのメディアも、名前こそ出さなかったものの、その人が犯人だと断定するかのような報道を行った。
当時ただぼんやりと新聞を読んでいた私も、犯人が捕まったのだと思っていた。


全く知らない人間にとっては、誰であっても「見知らぬ人」であることに変わりがない。
ただその固有名詞が違うというだけだ。
関わりがない、ということは怖い。
どんなに残虐な事件が起こったとしても、無関心でいられてしまうから。
しかしその分、容疑の段階にある人を避けたり軽蔑したりということは起こらない。
それが誰であるかを断定できるような情報というのは、近隣に住む人間や何らかの関わりのある人間が知って初めて意味を持つ。


顔を出さない、名前を出さないなど、細かい情報を隠していても、住んでいる地域や役職、年齢などを出せば周りにいる人たちはそれが誰であるか分かる。
そしてきっと本人や家族にとって、一番知られたくないのはそういったごく身近にいる人たちだろう。
見知らぬ全国の人たちに名前を知られることよりも、それが何より恐ろしいに違いない。
それなのに報道では、親しい人たちだけが断定できるような情報を流す。
何の意味があるというのだろう。
「容疑者」と言いながら、実際にやっていることは「犯人」扱いだ。


松本サリン事件で容疑をかけられ、散々メディアに叩かれた人は、真犯人が捕まるまで地獄のような生活を送ったと聞いた。
自分の家に毎日のように報道記者が訪れ、自分が犯人のように書き立てられたらと思うと、脆弱な私の神経では耐えられそうもない。
彼は、訴えるのではなく「もうこんなことはしないで欲しい」と言った。
強い人だと思う。
だけど、今回の事件ではその同じことが起きているような気がする。
「同じ」でなくなるのは、彼らが真犯人であった場合のみだ。
細かい情報を伝えるのは、犯人が特定されてからでもいいではないか。


メディアは狡猾で、今回「事情を聞いている」とだけ示されている。
それならば、「知人二人に事情を聞いている」ということを報道すればいいし、役職や年齢まで書く必要がどこにあるというのだろう。
名前を伝えていないだけで、それ以外の情報はほとんど伝えてしまっている。
これだけ騒ぎになった残虐な事件。
報道側も入手できただけの情報を伝えたいという思いがあるのかもしれない。
しかし、それで間違いを犯すことがあるということを、これまでにも何度となく経験してきているはずだ。
反省の弁がつらつらと並べられるのは、それが冤罪だと分かった場合のみ。
本当に犯人であったなら、そらみたことかと胸を張る。
こんなことの繰り返しでは、たとえ今回起こらないにしても、どうせいつかまた同じことが起きる。


失敗が起きるたびに、「もうこういうことを繰り返さないために」と言っていかにももっともそうな言葉が並べられる。
過去ばかり見ていて先へ進まないのは確かに問題だと思うけれど、だからといって毎回反省して終わらせる構図では、誰も救われない。
「次は」という言葉を繰り返したところで、その「次」が「今」だと思う姿勢に欠けているのではないか。


今回や、松本サリン事件の場合ばかりではなく。
きっともっとたくさんこういう報道のなされ方は続いているのだろう。
今事情聴取を受けている二人が真犯人だったとしたなら、きっと何も問題にはならない。
誰も何も気にすることなく、社会の中でのこの事件は終わる。
違えば大騒ぎになるだろうが、以前同様の反省を聞くだけだ。
「疑わしきは罰せず」というけれど、メディアがこういう報道の仕方をしているのであれば、法的な裁きを受ける前に、社会的な罰を受けてしまう。
そしてその「疑わしい」人たちの家族が今どんな思いをしているのかと思うと、居た堪れない。


私は、「犯人」に同情しているわけではない。
「犯人」だと、確実に特定されたならそれはそれで構わない。
「関与した疑いがある」という段階なのに、身近な人たちに誰だか特定されるレベルまでの個人情報を明かしてしまうという、報道の仕方に腹を立てているだけだ。
Will / Menu / Past : Home / Mail