Spilt Pieces
2003年04月17日(木)  流
あれだけ世間を騒がせたイラク問題が、一段落したとみえる。
新聞では、一面記事に「北朝鮮」という言葉が踊る。
まだ何も始まっていない。
だから何も終わっていない。
「やれやれ」と肩を落として緊張を解き始めた世界を見て、大切な人を失われた人々や傷を負った人々は、何を思うだろう。
もちろん、その場にいる人たちが緊張を解いているとは思えない。
ニュースを伝える各メディアが落ち着いてきたとも思えない。
だが、しばしば思うこと。
この国では、何かが一段落したと思ったら、忘れるのが本当に早い。
それが解決したかどうかではない。
「流行」とどこかが同じ。
形の見えない、定義できない「一般大衆」の傾向であるからなお悪い。
自分だけは別であるなどと、自己弁護するつもりもない。
「一般大衆」の一人。
誰もが「自分は違う」と言ったなら、どこにも「世論」がなくなってしまう。
そしてそれでもそこにある「世論」は、誰が責任を負うこともなく暴走するというのだろうか。
「無責任」の始まりは、ほんのちょっとした言い逃れから始まる気がする。


「ダイオキシン」「環境ホルモン」「温暖化」「水質汚染」「産業廃棄物」
これらの言葉は、「流行」となって去らなかっただろうか。
何が解決したのだろう。
それなのに、テレビをつけてもこういう話題を今ではもうほとんど見かけない。
人や資源ばかりではなく、問題までもが使い捨て。
話題にならなくなった途端、それが過去となるのは異様。
以前隣に住んでいた留学生が言った。
「日本は、朝見ても夕方見ても、同じニュースを繰り返しやるのね」
「バラエティは確かにおもしろいけれど、どこの局を見ても同じに見える」
「ニュース専門のチャンネルはないの?」
そうですね、と同意しながら、何も反論できない自分がいた。
集中的に同じ話題を取り上げ、飽和が来ると消え去る。
そんなことの繰り返しが、現在形であるのはずの問題を過去へと葬ってしまうのだろうか。


考えるべきことが多すぎる。
だけどそれを言い訳にして、流れ流れて結局何もかも置き去りにしていくなど、あまりにも馬鹿げているような気がする。
そして時折、忘れていることさえ忘れてしまう自分。
新聞記事を読みながら、遠いイラクの空を思った。
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