Spilt Pieces
2002年09月25日(水)  飢餓
私は知らない。
飢えるということ。
食べられないということ。


凍っていて、しかも腐ったじゃがいもを辛うじて食べて生きている?
そんなこと、現実的に分かるはずもない。
日本なら、いくら飢えても盗めば食べられる。
捕まっても、刑務所の中で食べられる。
盗む場所さえない、捕まる=死と直結するような環境を、想像できようはずもない。
なのに、そういう状況を知ると涙を流す。
その度、自分は偽善者なのだと痛感する。
「だって、私に何ができるか分からないんだもの」
刻一刻と人が餓死しているような場所が同じ地球上にあるという現実に対して、そんな言葉、言い訳にすらならないこと、分かっているはずなのに。


何も知らない。
知らないということの恐ろしさ。
誰かが情報操作なんて行わなくても、関心がなければ同じこと。
哲学を批判するわけではないけれど、痛々しい本を読みながら受けた哲学の講義は、何だかすごく表面的にしか感じられなかった。
思想だとか、人としての在り方だとか、そういうことを考える余裕どころではない人達が、世の中には多くいるのに、と。


どうして私は、今こうしてゆっくりと考えることのできる時間が与えられているのだろう。
悩む時間も、苦しむ時間も、全てがゆとりのような気さえしてしまう。
どうして同じ地球上に、何かを考える時間どころか、大人になるまでほどの時間も得られない人がいるのだろう。
私とその人達と、一体何が違うから、こんなにも違う人生になっているのだろう。
ただの偶然なはずなのに、ただ生まれた国、育った環境が違うという、それだけの理由で、だから決して今の生活が当たり前だなんて思ってはいけないのに。
昨日私は、バイト先でお客さんの残したおかずを、食べられるのに、捨てた。
これが日本の姿か。


今、北朝鮮のことが騒がれている。
そして日本人の持つイメージは、いいものだとはいえない。
これまでに続いた拉致、不審船、ミサイルなどの負の要因によって、北朝鮮に対して、一朝一夕では拭いきれないような不信感を持っている人が多い。
観光の人々が、ワールドカップで日本が負けて喜んだというが、負の感情というものほど消すのが難しいものはないのだろう。
だが、そういった感情を巧みに利用されてしまったらどうなってしまうだろうか。
それによって、考えるべき問題をその重要度の割に小さく捉えてしまったなら?
この前、新聞の一面に踊り出るべきだったはずの原発でのヒビが、日朝会談の陰で小さな記事となっていたかのように。


野田正彰著の、「国家に病む人びと」という本を、たまたま古本屋で見つけて購入した。
私は、それを読んで衝撃を受けた。
私の北朝鮮に対する認識は、やはり近くて遠いものだったなと改めて気がついた。
それまでどれほど関心がなかったものかと自分が嫌に思えた。
「ミサイルを撃ってくるかもしれないという不安が、飢餓についての情報を否認される」と筆者は書いていた。
300万人の餓死者という恐るべき数字も、軍事大国としてのイメージの前に忘れられてしまうと、警鐘を鳴らしている。
そう、私もそうだった。
そして今度の拉致問題で、ますますその傾向は強まってしまった。
そんなときに本を読んだ。
事実と、知らない自分に衝撃を受けた。


知らないことの、恐ろしさ。
今も現実は続いているという、恐ろしさ。
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