Spilt Pieces
2002年09月24日(火)  価値観
例えば私は、突如とんでもないことをするような人に憧れる。
一人で泊まるところも決めずに海外を二ヶ月も放浪するような女の子。
いきなりサークルを立ち上げたと思ったら関東大会で優勝してしまったと言って笑うような子。
英語も話せないのに、海外でボランティアに行ってくると言って出かけてしまう子。
世間一般からみたら、そういう子達は常識に欠けている部分が確かにあるのだと思う。
だが私にとっては、自分が求めてもなかなか得られない行動力と勇気を兼ね備えた人達であって、だから尊敬してしまうこともしばしばだ。


しかし私は彼女たちのようにはなれない。
自分には、どうしても外すことのできないような鎖がある。
親を泣かせたくない、と言ったら言い訳だろうか。
守るもの・生活があるというのは、足枷のようにも感じられてしまう。
それを現実的に考えすぎてしまっている時点で、私の一部分は若くないのかもしれない。
だけど、人まねをして無理をして、誰かを悲しませることは私にとって喜びでも何でもない。
世界を広く持っていたいと思う。
彼女たちのようには行動できない以上、私は私のやり方で世界を広げる方法を探さなくてはならない。
羨望だけが募っても、何の解決にもならない。
価値観が違うとはこういうことを言うのかもしれない。


心をおおらかに持っていたいと思う。
周りの価値観を認めることができなければ、それに左右されていつか自分の考えすらも分からなくなってしまう。
相手を認めて、そこから「では自分はどうあるべきか」と考えられないようでは、いつまでたっても先へは進めない。
上を見ればきりがない。


例えば、結婚。
最近結婚しない人が増えているというが、それを真似ることもない。
自分の選択として結婚しないという結果になるのならばそれはそれでいいと思うけれど。
社会的な女としてのステータスが、仕事を続けることだとも思わない。
私は、自分が結婚して仕事を続けなくても、続けられない状況にあっても、自分が外へと向かう気持ちがあって行動へと移しているのならば、「駄目な人ね」だなんて決して言わせたくない。
人それぞれの在り方があっていいのだと思う。
他人を見て、他人のようでありたいといくら願ったところで、極端な話その人でない限りは同じになどなりえない。
だったら自分の生き方とか考え方を持つしかない。
それを見つける過程で、多くの人の価値観と触れ合って、影響を受けて、お互いに高め合っていくことができるならば、なんと素晴らしい人間関係だろうか。


私はいつも、枠を飛び出て生きていきたいと思う。
だが、自分の求めるもののために何かを放り出して中途半端に・無責任に生きてしまったなら、これから先もそのようにしか生きられない気がする。
だから、中途半端ではありたくない。
何かをやめる前には、きちんと自分の責任とか、立場を見据えられる人間でありたい。
人はそれを頭が固いと言うかもしれないけれど、他の人にはその人なりの価値観があるのと同様に、私には私の価値観がある。
非の打ち所のない人間など、ありえないと私は思っている。
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