Spilt Pieces
2002年09月18日(水)  類は友を呼ぶ
類は友を呼ぶという言葉を実感することがしばしばある。
ただ、それは呼ぶというかあまりに合わない人とはそばにいないというだけなのだと思う。
合わない、とはどういうことだろう。


発想の転換をしてみた。
自分が嫌いだと思う人というのは、大抵自分が持っている嫌な部分を映す鏡だ。
認めたくないけど、どうしようもないと近頃思う。
好きだと思う人は、自分がこうありたいと願う人でもある。
だけどそういう人は、多分あまりそばにはいない。
目を細めて見てしまうような人は、いつだって遠い世界にいる。


全てが偶然だとは思わない。
たまたま輝いている人がそばにいないのではない。
どうしてか、輝いている人はその人たち同士で仲がよかったりするから。
ふと省みてみる。
自分は、例えば彼らに何かを与えることができるのか。
関係とは、一方が与えるばかりでは成立しない。
するはずもない。
私も、自分に依存されるだけの関係など望まない。
自分を高めてくれるような人を求める。
きっとそれは普通のこと。


だから思う。
輝く人を求めたければ、自分が輝く努力をしなくてはならないのだと。
嫌な友達が多いのは、そういう人としか付き合えない自分にも責任がある。
誰かを責める前に、自分のことを考えてみなくてはならない。


しかし私は、立派な人間になりたいとは思わない。
汚さも醜さもある、その分他の人のことを考えられる、そんな人間らしい懐の大きな人間になりたいと思う。
そのとき目指す目標は、「いい友達がいる」ということなのだと思う。
偶然じゃない。
自分の内面から出ているものが、どこかで誰かと共鳴していると言ったらさすがに感覚的すぎるだろうか。
だが、そう思う。


自分の友達がどんな人なのか、考えてみれば自分がどんな人間なのか少し分かるように思う。
こんなこと書いていても、別に友達のこと嫌いなわけじゃない。
というか好きだと思う。
ただ、向上心はずっと持っていていいのだと思う。
私は、友達と高め合っていける関係でありたい。
そういう理由で、いい奴目指してみたっていいんじゃないかな。
ふと、そう思った。


そしていい友達がいるのなら、そんなに自分を卑下したりしないで、もっと胸を張っていいんだと思う。
最近ずっと続いている無気力状態から脱して、前を向いていきたいと切に願う。
だから、自分にそんなことを言いたくもなるのかもしれない。
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