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| 2005年02月05日(土) 優しさの認知。 |
| 優しさとは一体何だろうと考える。例えば「笠地蔵」なんて物語は寒空の下、雪に打たれた地蔵が可愛そうだから笠をかぶせてあげましょうという話だったと思うが、この場合、笠をかぶせてあげた爺様の優しさは、地蔵が笠をかぶっているという状況を視覚的に認知して、誰がした爺がした、よって爺は優しいということになり、非常に解りやすい優しさとなっている。 僕は電車を待っていた。僕の横には若いサラリーマン、僕の後ろには3歳児を抱えた婦人。ややあって電車が到着して扉が開く。すかさず空いている席を探す。左斜め前方向の席が一つ空いている。一つしか空いていない。さてどうするか。と、僕は僕の隣に立っていた若いサラリーマンを巧妙にガードし、若いサラリーマンが座席を確保することを阻止。ここからあの空席までのルートは僕が確保した。よって僕があの座席に座る権利を獲得したといっても過言ではない。権利を獲得したということは、その権利をどう行使しようと僕の勝手である。と、空席の斜め前の吊り革を掴み、携帯をチェックする振りをしたりして。その間に、僕のルート上の真後ろにいた3歳児を抱えた婦人が空席に座る。 買いかぶるわけではないが、これも優しさである。若いサラリーマンを巧みにガードし、子供を抱えた主婦を誘導する。それもまるで無意識でそう行っているように。無意識で行った行動に見えるので、勿論婦人は僕に礼を言わない。それも当然である。優しさは決して強制してはいけない。自然に行われるものなのだ。 と、変な偽善心に浸っていると、新たに赤子を抱えた婦人が登場する。この婦人、先ほどの婦人より幼い児を抱えている。おまけに泣いている。でももう僕譲れる席なんてないし。しょうがないや。ぷぷぷーん。と、何がぷぷぷーんなのかわからないけど、あの婦人には僕がしてあげられそうな優しさは残っていないので、たまに横目でチラチラと、早く泣きやまねぇかな。つーか誰か席譲んねーかななんて思っていたら、先ほどの3歳児を抱えた婦人が「よかったらどうぞ」と立ち上がり、席を譲ろうとしているではないか。 他の乗客を見まわしてみると、オレ子供なんて抱えて電車乗ったことないから子供なんて抱えて電車に乗った苦労なんてわかんないもんねというような顔でうつむいているか新聞を読んでいるかメールセンターにせっせと問い合わせをしている。全く人の気持ちを解らん奴は炭鉱にでも強制労働させられたらいいのに。 と、僕も人ごとのように思っていたのだが、着目すべきなのはこの優しさであって、泣いている赤子を抱えた婦人を見るに見かねた婦人は、私が抱えてるのは3歳児ですから。立とうと思えば立てますから。ほら、立って。ね、赤ちゃん泣いてるでしょ。あんたも3年前はこんなんだったのよ。電車で泣いて。困り果てておりました。電車の席が空いていないなどの折は、こちらが泣きたくなっておりました。だから私は貴女の気持ちがわかります。わかりますのでどうぞ私の席にお座り下さい。 爺が地蔵に笠をかぶせる級のわかりやすい優しさである。僕の無意識の優しさとは比べものにならない。比べものにならないが、同じ優しさ。周囲から認知されるかされないか。そんな問題。損得の問題ではなく、これは自分の中の問題。報われない優しさ。こういうことを考えると、せっかくボランティアしたのに宝くじ当たらんかったみたいな感じで嫌になるが、どうせ優しくするんなら、真の優しニストを目指すなら、アピールポイントというか芸術点というか、そういうものも磨かなければいかんなぁと思ったり思わなかったり。 |
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