2005年01月30日(日)  赤い自動車(前編)
「ヨ、ヨ、ヨ、ヨシミせんせい」
 
山本さんは、いつも僕のことを「ヨシミ先生」と呼ぶ。僕が何度も「先生じゃなくて看護師ですよ」と訂正を促すのだけど、もう何ヶ月も病室に入ってきた僕を見るなり、いつものどもりがちな口調で手を振りながら「ヨシミ先生」と呼ぶのは、きっと僕がこの病棟の中で一番山本さんに接しているからだと思う。
 
山本さんは、演歌が大好きで、ベッドサイドに座った僕に、いつもタイトルがわからない演歌を歌ってくれる。寝たきりの山本さんは、顔だけ上げて僕の方を見ながら、唯一タイトルを知っている「この世の春」という歌をうたう。他の演歌のタイトルは僕は知らないし、山本さんも知らない。時々、オムツを替える時も歌い出すこともあって、オムツを殿部の下に敷こうとする時に「山本さん、ちょっと腰上げて下さい」という言葉も、山本さんの音階を掴めない上機嫌な歌声にかき消されてしまい、オムツ交換がはかどらないことだってある。
 
「明日、赤い自動車貸して欲しいんですけど」
 
山本さんは赤い自動車を持っている。正確にいうと「持っていた」のだが、山本さんは32歳のまま年齢が止まっていて、山本さんは今でも、赤い自動車を所有していると思い込んでいる。「若い頃は、本当に赤い自動車に乗っていたのですよ」お見舞いに来た山本さんの妹は懐かしそうに僕に話した。
 
山本さんの中では、ずっと32歳で、寝たきりのこととか、お尻に床ずれができていることとか、何月何日かわからないこととか、自分の妹が誰かわからないこととか、そういう不都合な事項は実に都合良く抹消されている。
 
だから僕も山本さんには、63歳ではなく32歳の山本さんとして接している。山本さんは優しいから、僕が明日休みだと言うと「僕の赤い自動車、使っていいですよ」と言ってくれる。「兄弟を、乗せてもいいですよ」と言う。山本さんは兄弟思いだったのだ。「兄弟じゃない人も乗せたいんですけど」「お、お、お母さんも、乗せていいですよ」山本さんは、兄弟思いで母親思いで、ずっと独身だった。
 
今年64歳の山本さんは、去年の秋、本格的に体調を壊し、周囲のスタッフも主治医も「もう長くはないだろう」と、絶望的な見解を述べた。だけど僕は、そんな気はしなかった。だって山本さんはまだ32歳で、今はこうやって寝たきりだけど「ちょっと長い休みをもらっただけ」であって、今でも印刷工場で働いている。「印刷所でどんなことしてるんですか?」と僕が問うと、「働いて働いて働いて働いて働いて」と、病室の天井を見上げながら永遠に呟き始める。山本さんはすごく働き者だったのだ。
 
山本さんは、きっと元気になると思った。去年の秋から冬にかけて、僕は演歌も歌わなかったし、赤い自動車も借りなかった。だけど毎日酸素マスク越しの山本さんに話し掛けた。今日は十月の第二月曜だから体育の日です。今日は十一月三日だから文化の日です。今日は十二月二十日でもうすぐクリスマスです……。
 
そして山本さんは徐々に元気になっていった。主治医は「もう長くはないだろう」という、もはや医者のただのプライドと化してしまった見解を述べ続けたが、僕はそんなものに耳を貸さず、カルテすら相手にせず、ただ、ただ、人間の山本さんに接し続けた。
 
酸素マスクが取れ、持続点滴が終了し、流動食が始まり、1時間も2時間も掛けて食事介助を続けた。山本さんは自らの体力が回復していくのを実感しているように、もはや一本しか残っていない歯で、食事を咀嚼していた。
 
「信じられない」
 
僕と山本さんは不敵な笑みを浮かべ、看護婦さんを、そして主治医を見上げていた。数ヶ月前まで酸素マスクを装着し、呼び掛けに目を開けることもなかった山本さんは、今はもう、自分でスプーンを握れるようになっていた。山本さんの32歳というプライドは、実年齢の31歳の差異を見事に征服した。食事の度に、僕をチラチラ見ながら、自分でスプーンを握ることができるというアピールを続けていた。
 

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