![]()
| 2004年05月08日(土) 不幸。 |
| 痴呆の患者さん。毛布をマントのように被り、右手に枕、左手にオムツを持って病室をウロウロしている。「何してるんですか?」と問うと、「いや、業者がね、みんな張り切っちゃって。落ちるときもあるし」と、何を言っているのかわからない。その後、彼は枕を持ったままトイレへ行き、トイレの中で枕カバーを外し、枕カバーの中に両足を入れ、動けなくなっているところを発見。救出し、自室へ誘導する。 と、こういう夜勤。精神科は、心を病んだ人ばかり入院しているのではなく、一部はこのような重度の痴呆の患者も入院している。僕は、看護婦さん達のように、患者さんの行動を、ただ「意味がない」「わけがわからない」という理由で抑制したりしないので、僕が夜勤の日の痴呆の患者さんは、みんな元気。やりたいことをやっている。 「不幸」ということについて考える。重度の痴呆の患者さん達のこのような行動を見て、家族の人や一般の人達は涙するかもしれない。「可哀想に」と嘆くかもしれない。しかし、この悲しみは、誰のための悲しみなんだろうと思う。 例えば、先述の痴呆の患者さん。枕カバーに両足を入れて動けなくなりながらもニコニコしている。「いやぁ参ったよ。業者がね、開いたり閉じたりさ。電話もあったんだよ」なんて言いながらニコニコしている。だから僕もニコニコしながら「業者だったら、さっき部屋に行ってましたよ。さっき見たときは閉じてましたけど」なんて、患者さんの会話に合わせてるのかそうでないのかわからないけど、それから患者さんと肩を組んで部屋に戻る。 肩を組みながら患者さんの横顔を見ると、とても楽しそうな顔をしている。その笑顔を見て、誰が不幸だと思うだろうか。健常者が描く、「不幸」というベクトルは、誰に向いているのだろうか。そう、自分達に向けられているのである。自分が、年をとって、こんな状態になったら嫌だな。自分の親がわけわからなくなったら悲しいな。「不幸」のベクトルは常に自分に向けられる。だから看護婦さん達は、そのような行動を抑制する。できるだけ正常な行動に近付けるように。見栄えだけでも健常者に見えるように。 そのような価値観は常に健常者から発せられて、痴呆という不幸のフィルターを通して、再び帰ってくる。そこに、患者さんの意思は、ない。 患者さんの笑顔を見ながら、不幸について考える。あなた達は不幸ですか。そうやってオムツを外して廊下に放り投げて、ブツブツと独り言を呟いて、隣の患者さんのコップに入ったお茶を飲んでニコニコしている。不幸って何ですか。それは誰の為の不幸ですか。 |
| 翌日 / 目次 / 先日 |