2003年11月26日(水)  そこにあるもの。
 
夜勤の朝、鏡に映るやつれた自分の顔を見ながら「あと3時間」と考える。あと3時間で仕事が終わる。午前6時。深夜の静寂は去り、次々に患者さん目覚める時間。
 
「あと3時間」
 
僕は鏡に映る自分に言い聞かせるように、同時に隣で入れ歯を磨いている患者さんに話し掛けるように呟いた。
 
「あと3時間だねぇ。若いんだから昼まで働きなよ」
「いや、無理です。腹が減って、たまらない」
「若いとすぐ腹が減るもんな。俺なんてミキサー食だから食事の時間がすごく憂鬱なんだ」
 
その老人はそうやっていつまでも愛惜しそうに入れ歯を磨き続けていた。
 
夕方5時から始まって朝9時に終わる勤務の中で、この朝の時間が一番疲れる時間。しわだらけのだらしない白衣、伸びかけた髭、日勤の仕事の準備。午前7時。あと2時間。あと2時間。
 
「屋上、行ってみて」
 
看護婦さんが今外から帰ってきたばかりのように鼻と頬を少し紅潮させて手をこすり合わせながら僕に話し掛ける。
 
「いやです。寒いから。腹が減って、たまらない」
「いいから行ってみて。綺麗だよ」
「何が綺麗なんですか」
「あなたが見たことないもの」
 
階段を登り、屋上に通じる鉄のドアを開ける。朝の空気が白衣超しに僕の肌を刺す。身震いをしながら屋上の中心まで歩き僕の見たことのない何かを探す。
 
「……あ」
 
朝の空気にさえかき消されてしまいそうな僕の声の先には、富士山が、見えた。
 
東京で富士山が見えるなんて知らなかった。最初、あれは富士山じゃなくて東京近辺の僕の知らない有名な山だと考えたけれど、あの堂々とした風貌は紛れもない富士山だった。
 
「……あぁ」
 
もう一度僕は曖昧な感嘆符を呟く。変な話だけど、富士山を見て初めて僕は、何も知らない土地に住んでいて、働いているんだと思った。
 

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