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| 2003年08月29日(金) チェルシーは誰の味。 |
| 校舎は5階建てで、僕は3階で講義を受けていた。「精神医学」今更教わるまでもない基本的な知識の波。僕は前に座っている人に隠れるように文庫本を広げあくびをしながらページをめくっていた。数ヶ月前まで毎日のように耳にしていた精神医学的な言葉が文庫本を読んでいても耳に入ってくるので、うつ病と聞いて、不安神経症と聞いて、PTSDと聞いて、僕は鹿児島を思い出す。東京は今日も暑い。昨日、妹から電話がきて鹿児島はもっと暑いらしい。 昼休み、コンビニで買ったサンドイッチとコーヒーを飲みながら文庫本を開いて一人で過ごす。最近は人と会話することが、こういうことは悪いことなんだけど、つい面倒臭くなってしまって、こうやって大学の講義でも極力人と会話することを避け、文庫本を開いたまま誰からも話し掛けられない雰囲気を作るようにしている。机上の携帯が無音で震え、メールの着信を告げる。 「もうお昼食べた? もうちょいしたらまた会いに行ってもいい?」 彼女は5階で講義を受けている。今日初めて遅刻したらしく、朝早くから「どうしたらいいの、どうしたらいいの、こういうときってどうしたらいいの」と混乱したメールを何通も送ってきた。僕は遅刻をしない日がなく、遅刻に関しては誰よりも変な自信を持っているので彼女に電話をして 「そういう時は慌てちゃいけない。なに? なにここの生徒。なに時間通り来てんの。紋付袴な人生送ってんの。馬鹿じゃないの。私は1時間送れたけれど、この1時間であなたたちは如何ほどの知識を得たというの? この1時間で、私とどれだけ差がついたというの。私が電車に揺られてたときと、あなたたちがこの硬い椅子に座ってた時間にどんな違いがあるの? 馬鹿? 私が? いやそれはむしろあなたたちよ。って顔をしながら悠然と自分の机に向かえばいいんだ」 と助言したら「それはあなただからできるのよ。ねぇ、私どうしたらいいの?」と、もう今まさに泣き出さんばかりなので、とにかく落ち着くように、ここは僕がどうにかするからと甚だ無責任なことを言って、僕はそのまま講義の続きを受けた。 昼休み、彼女は3階に降りてきて、ポケット一杯に入れてきたチェルシーを僕に差し出した。彼女のポケットにはいつもチェルシーが入っていて、嬉しいときも悲しいときも、まずはとりあえずチェルシーをポケットから出して話を始める。 「お、今日はガムも入ってるんだね」 「あ、それは返して」 返してと言われたらガムが惜しくなったけど、よく考えたらたいして惜しくもないので素直に返してチェルシーのベリー&ミルク味を口に頬張った。昼休み、校舎のベランダで東京の空を見上げながら、時々往来を行く人々を見下ろして階下に向けて煙草の煙を吐きながら独り言のように呟いた。 「ほら、あの人たちも、結局は僕たちと対して変わらないんだ」 「ん? どういう意味で?」 「実にいろんな意味で」 「それ美味しいでしょ」 「うん。美味い」 彼女の横顔は、いつものように頬の部分だけチェルシーの形がふっくらと浮かび上がっていた。 |
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