2003年06月12日(木)  人間的な文章とは。
ついさっきベランダから僕を呼ぶ声がして隣人からバナナを2本貰いました。朝から何も食べていなかったのでそろそろカロリーメイトでも食べようかしらと考えていたところ、ベランダからバナナ2本。人間はあらゆる場所から幸福が舞い降りてくるのです。風呂上り、部屋のチャイムが鳴る。ピンポンピンポンピンピンポンと、1回1回2回連続という順序でチャイムを押すと、それは隣の女性。しかし偶然とは怖いもので昨日ピンポンピンポンピンピンポンと鳴ってドアを開けるとNHK。
 
「受信料の請求に参りました」
「この前振込み用のハガキ貰ったんでそれ書いて出します」
「それでは私が出します」
「えー。まだ書いてないんですけど」
「じゃあ今書いて下さい。待ってますので」
「えー。わかりました」
 
と言ってドアの鍵を閉める。ピンポンピンポンピンピンポンとチャイムが鳴り響く。お笑いオンエアバトルしか見てないので僕は受信料を払う資格がないと思う。お笑いオンエアバトルだって見たいから見てるんじゃなくて、深夜にすることがなくてチャンネルをカチャカチャ変えているとたまたまお笑いオンエアバトルをやっていて、しょうがないから見てみまひょ。と軽い気持ちで、放映時間を待ちわびていたのではなく軽い気持ちで。時に鼻をほじりながら尻を掻きながらつまんねーなーと軽い気持ちで。よって受信料を払う資格はゲッツ。
 
今日のチャイムは隣人で、お互い風呂上り。ほんと僕は欲求不満なのかしらっていうくらい、なんていうか体の芯が熱くなって、僕の部屋はワンルームだからベッドにも誘導しやすいし、いい感じに話も盛り上がってるし。と。と。その盛り上がってる話の内容は隣人が通ってる大学のレポートの話で、今日は風呂上りに2人で「人間的とはどういうことか」について話し合いました。「人間的とはどういうことか」などと漠然的なテーマで書けるわけがない。ないっす。へへ。嘘。書けるっす。10分で書けるっす。バナナのお礼っす。ドン。
 
人間的とは一言でいうと機械的ではないということであるが、対義語だけでは説明できないほと人間的という言葉の意味は広い。例えば小さな白い花を見て、それを小さいと捉えるか、白いと捉えるか、綺麗だと捉えるか個人によって感じ方に差ができてしまう。このように個人差があるということも人間的だということができる。
 
先日、妻の承諾を得て首を絞め殺害したとして承諾殺人罪の罪に問われた77歳の老人男性の判決公判が行われたが、充分な手だてを尽くさず、人の命を奪った責任は重いが、妻とともに自殺しようとした経緯には同情すべき点があるとして懲役2年が言い渡された。
 
私はこのニュースを見てとても人間的だと思った。もし裁判というものが機械的だったらどうなるのだろうか。おそらく殺害という犯罪は種類を問わず死刑となるだろう。しかしこの場合、裁判官は「同情すべき点がある」と人間の心に基づいた見解を述べている。裁判が機械的ではないところはこの情状酌量という言葉によって理解することができる。
 
通り魔などの衝動的な無差別殺人は人の命を軽率した機械的な犯行といえる。しかしこの承諾殺人の事件の場合、被告が知らないうちに妻が約600万円の借金をしており、妻本人「殺して」と求めるようになり、被告は妻を殺し自分も死のうと考えて犯行に及んだという経緯があり、葛藤、苦悩、悲哀など実に人間的な感情が渦巻く犯行で事件全体が人間的であったともいえる。
 
これら一連の経緯には決して機械では理解することのできない意味が込められていると思う。小さな白い花を見て小さいと捉えるか、白いと捉えるか、綺麗だと捉えるか、また冷酷だと捉えるか。個人によって感じ方に差があり、多種多様な意味を見出せることが人間的ということではないだろうか。
 
ね。荒唐無稽。が。体裁は、整っているような、気がする。そこがコツ。大学のレポートなんてものは全体を見て、なんとなくなんとなくなこと言ってるなぁと思わせることがミソであって、それさえ踏まえて書けば何を書いたっていいのです。質でも量でもなく、なんかレポートみたいな感じ? そんなレポート感が出ていればエニシングオッケー。さぁ始めよう!

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