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| 2003年05月09日(金) 壁一枚。 |
| 「あのー。困ってるんです」 携帯から、そして隣の部屋から同じ声。部屋に暖かい日が差し込む午後4時。僕はベランダに腰掛けて携帯片手に煙草を吸っている。隣のベランダでも、壁に隔たれてわからないけれど、彼女も同じように座っていて、携帯片手に困っている。 「どうしたの?」 「えっと、あのー。今からそっち行ってもいいですか」 「え? あ、あぁ。いいよ。ちょっと散らかってるけど」 僕は即座に振り返り部屋を点検する。テーブルの上のいろんな書類と、ベッドの上の雑誌類。これを片付ければ、まぁ、整理された部屋に見えなくもない。こっちに引越してきて初めて女性が部屋に来る。しかもそれが隣の部屋の中国からの留学生の女性だなんて、誰が予想できるだろうか。 書類と雑誌を片付けて、洗面所に行き寝癖直しスプレーを頭に吹きかける。午後になるというのに僕は今日まだ一度も外に出ていない。いや、一度だけ外に出た。午後11時に目覚めて今日が可燃ゴミの日だということを思い出し、ゴミ袋を2つ下げ収集所まで行ったが、とっくにゴミ収集は終わっていて、仕方なくまたゴミ袋を2つ下げながら3階の部屋に戻ったのだった。 「こんにちは」 恥ずかしそうに彼女はドアを開けて、顔だけ出して僕の表情を窺うように挨拶する。僕は柄にもなく、少しドキドキしていたけど、何でもない態を装い、「どうぞ。ゴメンね散らかってるけど」と部屋に招き、1人掛けの赤いソファーを勧め、コーヒーでも出そうかと思ったけど、僕の部屋にはまだコップが1つもないということを思い出し、困ってしまった。 「わぁ」 と彼女は部屋に入るなり歓喜の声を挙げて狭い部屋を見渡す。赤いソファー、赤いベッド、赤いテーブル、クリーム色のカーテン、パソコンと、床から天井までの高さのある9段の本棚。統一感のない小説と参考書。一貫性のないCD。小さな冷蔵庫と、まだ使ったことのないコーヒーメーカー。彼女は動物園にでも来たかのように好奇の目を輝かせ、それからやっと、僕の存在を確認する。彼女は今日もパジャマ姿で、その姿がこの部屋に自然な空気を充満させた。 「こんにちは」 「こんにちは」 「どうしましたか」 「大学から帰ってきて今まで寝てました」 「そう。で、どうしたの?」 「えっと、これ、手伝って下さい」 と彼女が出したA4サイズの用紙には、『自然科学概論 レポート課題』と書かれてあった。 「難しくて、わかんないんです」 彼女は本当に困った顔をして僕に課題が書かれた用紙を差し出した。僕はそのレポートの課題を眺めながら、1200字程度にまとめなさいと書かれたテーマについて考えていた。 「うん。なんとか大丈夫。これだった1時間あればできるよ」 「ホントですか! CD貸してください」 「あ、あぁ、うん」 ともうCDの詮索に取り掛かっている。その仕草はとても自然で、夕陽が差し込むこの部屋を優しく演出している。一昨日、ベランダで会話したときに、僕は通信大学に通っていて、月末はレポートの作成に追われていて、文章を書くことに多少慣れているということを言ったことを彼女は覚えていたのだ。彼女は日本語はスムーズに話すことはできるけど、まだ難しい言葉があるらしく、読むのは少し苦手だと言った。確かにこのレポートの課題は、少し難しいような気がする。しかし僕が通っている通信大学では自然科学概論なんて科目はないけれど、毎日何かしらの文章を書いているという小さなプライドを持っている。この程度の課題、1時間で終わらなければ僕の名が廃る。と根拠のない自信の元で有言実行。 「じゃあ終わったら電話するよ」 「私このケミストリーって好きなんです」 「あ、あぁ、うん」 「私も手伝います」 「いや、いいよ。とりあえず仕上げてみるから、それ読んでから修正していこう」 「わかりました。だけど私今から出掛けるから、帰ってきたら電話します」 「うん。わかった」 「それじゃあ、行ってきます」 「うん。いってらっしゃい」 そして彼女は部屋を出て行った。僕は今日目覚めてすぐ通信大学の今月提出分のレポート作成に取り掛かって、2科目分、16枚ものレポートを仕上げたばかりで正直パソコンの前に座るのも苦痛だったけれど、たった1枚、1200字。これくらいの文字数、いつも日記で書いてるじゃないか。と自分に鞭打って、吉野家に行って牛丼と半熟玉子を食べて、レポート作成に取り掛かった。 1時間後、約束通りレポートを仕上げて彼女の帰りを待っている。マンションの壁一枚と国境を隔てた不思議な関係。午後10時。誇らしげな顔を練習しながら僕は彼女の帰りを待っている。 |
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