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| 2003年05月07日(水) 暮れなずむベランダで。 |
| 夕方、ベランダで洗濯物を取り入れていたら「こんにちはぁ」と声がした。最初どこから聞こえたのかわからず、ベランダから身を乗り出して下の階を覗いてみたり屋上の方を見上げたりしていたら「ふふふ。ここですよ」と僕の真横で声がする。僕の真横は、隣の部屋のベランダを隔てるアルミ製の薄い壁。火事で避難するときはこれを突き破って下さいなどと書かれているあの壁。壁ガ喋ッタヨ。と、そんなことはなく、その壁の横に、やはりベランダから身を乗り出している隣の部屋の女性。やぁ、こんにちは。 隣の部屋の女性は、僕と同じ日に引越してきて、一度だけ顔を合わせたことがある。近所のドラッグストアに買い物に行ったとき、洗剤が安かったので2個買ってその1個を挨拶代わりに彼女に渡したのだ。 「こんにちは。今日引越してきた隣の部屋のヨシミです。はい、これ、使って下さい」 「わぁ、ありがとうございます。私も今日引越してきました。中国から来ました」 と、一度会話を交わしただけだった。そして月日は流れ、月日とかいってもまだ2週間も経っていないんだけど、それから彼女と顔を合わせることはなかった。そして二度目は、ベランダで、偶然出会った。 「昨日まで前住んでたアパートにいました。今日からこっちに住むんです」 僕たちはアルミの壁を避けるようにベランダから身をのりだしたまま会話を始めた。ベランダからは夕陽が見えて、向かいの部屋からは大音量のユーロビートが流れていた。彼女はパジャマのままで小さなネックレスをつけてベランダに吹き付ける風に何度も髪をかきあげながら、無邪気な笑顔で話し始めた。中国から日本の大学に留学している。日本に来て数年経つ。近所のスーパーの物価が高くて困っている。コンビニが遠い。ゴミを出す日がわからない。 「ちょっと待っててね」 僕は部屋へ戻り『川越市 家庭ごみの分け方・出し方』という住所変更のとき市役所でもらったパンフレットを取り出しベランダの壁越しの彼女に見せる。 「えっと、可燃ゴミ、ね、わかる? 燃えちゃうゴミ。火・金って書いてるでしょ。火曜日と、金曜日。月火水木金土日の火曜と、金曜。ね、週に2回。ペットボトルと空き缶は、月に2回。ほら、これに書いてあるから、はい、あげる。僕はこれもう1個持ってるから、大丈夫」 と、彼女にパンフレットを渡す。そして夕陽が沈みかけても会話は続く。外国人というだけで住むところ働くところ、どれだけ差別されているか。辛い思いをしたけれど楽しいこともいっぱいあるとか、前のアパートの大家のオバちゃんがゴミの分別についてすごく厳しかったとか、彼女は豊かな感情と表現を駆使して、それを一生懸命伝えようとしている。僕は相槌を打ちながら、へぇ、とか、わぁ、とか、そりゃ大変だ、などと共感を表す返事を繰り返す。マンションのベランダで、日が暮れても構うことなく僕たちは話し続ける。もう話し始めて1時間が過ぎていた。時々階下に面した道路を通る人たちが珍しそうにこの光景を眺める。 僕は外国人が日本に住む辛さなんてあまり考えたことなかったけど、現状は切実で、切実なんだけど、こうやって芯が強くて常に世の中と向き合ってる人がいて、無職で昼過ぎに起きて今日の予定も明日の予定も立っていない僕が、なんだか恥ずかしくなって、頑張ってという言葉も説得力がなく、夕陽に照らされた彼女の強い笑顔を眺めながら、なんか、わかんないけど、 「うん。僕も頑張る」 「え? 何を?」 「ん? よくわかんないけど」 前を向いて頑張ろうと思った。マンションのベランダで暮れていく夕陽にそう誓った。 |
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