2003年04月06日(日)  逆流できない場所。
高校1年。午前7時35分。同じバス停。同じ時刻。違う高校。僕は彼女に恋をしていた。同じ風景。同じ空気。いつも決まって黒縁眼鏡で派手なネクタイのサラリーマン。寒暖関わらず青いニット帽をかぶっているお婆さん。そして僕。そして彼女。僕たち4人は、いつも同じ時刻に同じ場所に集い、言葉を交わすこともなく、黙々と今日1日の予定を立てながらバスを待ち続けていた。
 
バス停での僕と彼女の距離は約2メートル。それ以上離れもしないし近付きもしない。話し掛けもしないし問い掛けられもしない。毎朝2メートルの距離で様々な憶測をする。どこに住んでいるんだろう。何て名前なんだろう。……彼氏はいるのかな。
 
その朝は社会見学に行くのであろうか、何十人もの小学生でバスは混み合っていて、座席が1つしか空いていなかった。先にバスに乗った黒縁眼鏡のサラリーマンと青いニット帽のお婆さんはすでに席を確保し、突然の満員バスに対してホッと肩を撫で落としている様子。そして残る座席は1つ。小学性の甲高くて陽気な声。教師がそれをなだめる声。座席は1つ。意を決して、座席に座る。目を閉じる。そのまま眠ったフリをする。不自然に顔を傾け、心拍数と反比例した呼吸をゆっくりと、吸って、吐く。吸って、吐く。吸って……。そのとき、柔らかな春の香りが僕の鼻腔を刺激する。薄く目を開けると、僕の横に、うっすらとスカートから覗く彼女の膝が見えた。彼女は僕の横に座ったのだ。
 
あれから10年以上経ったけれど、あの時、僕はそのまま寝たふりなんてしないで彼女に話し掛けるべきだったのだ。あれほど聞きたかった住んでいる場所や、名前や、彼氏がいるのかということを。なぜか寝たふりを続けざるを得なかったあの日のバス通学から、もう、10年以上経ってしまった。
 
10年後、ただ苦しいだけの10代を経て、20代も後半に差しかかったとき、彼女は突然僕の目の前に現れた。住所と名前、生活歴が詳細に記されたカルテ。そして彼女の苗字が記された点滴。彼女の瞳には涙が浮かんでいて、僕は表情を殺して白衣を着ていた。あの日のバスの鼓動が蘇る。注射針を持つ手が微かに震える。「あの日僕は話し掛けるべきだったんだ」と声を出して呟いたつもりだったけど、発語という機能を抑制されたぼくの口は、餌を求める湖面の鯉のようにパクパクと動いているだけだった。
 
彼女は何も変わっていなかった。大きくて憂いを帯びた瞳と、小さな唇。白い肌と細い指。桜貝のような爪。何も変わっていなかった。何も変わっていないと信じていたかった。何も変わっていない。彼女は、あの時の彼女だ。バス停の彼女だ。涙を浮かべて病室の天井を見つめる彼女は、きっと……。きっと……。どう補足すればわからないけれど、あのときの彼女に違いない。病室をノックした僕と一瞬目が合った。そして驚いたように目を見開き、それから静かに目を閉じた。
 
「それでは今から点滴しますね」
 
彼女は静かに肯いた。瞳に溜まっていた涙が頬を流れ落ちる。10年振りの再会の最初の言葉が「点滴をします」僕はそれが歯痒くて、悔しくて、苦しかった。彼女は、それ以上に、悲しかったのかもしれない。
 
右腕のセーターをまくり、彼女の白くて細い腕に駆血帯を巻く。指先で皮膚を撫で、血管を探る。彼女の肘の窪みに浮かぶ上腕正中皮静脈。仕事と懐古との葛藤を繰り返しながら、あれほど逢いたかった彼女に、あれほど触れたかった彼女の肌に、あれほど組んで歩きたかった彼女の腕に、あれほど縮めたかった彼女との距離の中で
 
静かに注射針を刺した。
 
逆流する血液を呆然と眺めながら、僕たちはもう、逆流できない場所まで来ているということを知った。

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