2003年03月15日(土)  陽だまりの星空。
西日が差す病室は、いつも明るくて、暖かかった。彼女はカーテンを閉めずに、いつもその陽だまりの中に佇んでいた。3年前の夏。仕事を終えて彼女が入院している病院に行っても、外はまだ明るかった。あの時の光景が、セピア色になのは、思い出の所為ではなく、あの陽だまりの色だった。
 
「ただいま」
「おかえり」
 
僕は毎日病室のドアを開けて「ただいま」と言った。彼女はいつも半分起こしたベッドに寄り掛かり「おかえり」と言ってくれた。それから細い指をいつも唇の元へ持っていき、無言で、静かな笑顔で、キスをねだった。僕は静かで短いキスをして、日に日に細くなっていく彼女の手を握った。
 
「今日は、何したの?」
 
彼女は遅れ髪を耳にかきあげて、僕の話を聞こうとする。その仕草はいつも無意識で行われ、僕は胸を締め付けられる。
 
―――
 
「聴力の低下?」
 
入院前日、僕は彼女の口から衝撃的な事実を聞くことになる。
 
「うん。耳がね、どんどん聞こえなくなっちゃうんだって。ほら、最近あなた、私に何度も同じこと話し掛けてたでしょ。あれね、アナタの言葉がどっかに吸い込まれちゃったみたいに、聞こえなくなってたの。最初は気のせいかなって思ってたけど、耳鳴りもひどくなって」
「耳鳴り?」
「そう。私ね、去年くらいからずっと耳鳴りが聞こえてたんだ。最初は小さくて気にするほどでもなかったんだけど、最近なんて毎日私の周りでセミが鳴いてるみたいなの」
「病院には?」
「もちろん行ったわよ。で、脳の写真撮られて、フフ。入院だってさ」
「病名は……」
「聴神経鞘腫」
「え?」
「ちょうしんけいしょうしゅ」
「何? 初めて聞く病気だね」
「アナタは看護師さんなんでしょ。しっかり病名くらい勉強しなくちゃダメよ」
「そんなこと言ったって……」
「大丈夫、死にやしないから」
 
その日僕は家に帰るなり日頃見向きもしない医学辞典を開き、緊張した指先でその病名を探った。

神経鞘腫【しんけいこうしゅ】
神経を取り巻いて支える鞘(さや)から発生する腫瘍で脳・脊髄腫瘍の一種。一般的に、まれな悪性神経鞘腫を除いて良性の腫瘍で、手術で完全に摘出できる場合は治癒が期待できる。
 
―――
 
「今日はね! 仕事に遅刻しちゃったんだ!」
僕は彼女の耳元で大きな声で話す。手術は成功といえたが、聴力の著しい低下という、腫瘍が存在していた神経の機能障害が残った。僕が大声で話してる間、彼女は目を閉じて、少し眉間に皺を寄せて精一杯、僕の言葉を拾おうとする。
 
「まぁ、寝坊だけはいつまで経っても治んないのね」
 
彼女はそう言って、いつもの不思議な笑顔で微笑む。あの手術は、聴力の低下と、顔がたるんで反対側がひきつったように非対称になり、まぶたが閉じられなくなるという顔面神経麻痺の症状を残した。それでも手術は成功だった。成功だったと医者は言った。
 
そして彼女は、徐々に音を無くし、笑顔を無くし、心を閉ざしていった。
 
もう僕の声も聞こえない。おそらく聞こえているのはセミの鳴き声のような音だけ。もう僕の仕草にも笑わない。彼女が閉ざした心の鍵は、音を消し、表情を殺し、胸の奥深くに隠されてしまった。もう、僕の手が届く距離ではなかった。愛で、この世に愛の力があるとすれば、あるとしても、彼女にとってのそれは、赤子の力くらいの影響力しかなかったのかもしれない。
 
 
 
そして
 
 
 
手術から1年経ったあの夏の夕方、彼女は病室から忽然と消えた。思い出したように投げ出された薄い毛布に、いつものように西日が差してセピア色に染めていた。
 
それから僕と、彼女の両親、あと仕事の延長のような態度の看護婦とで彼女を探した。音を失い、感情を失った彼女を探した。やがて西日が隠れて、周囲が闇に覆われてきた。
 
病室に戻ると、いつものように、僕たちの喧騒をまるで知らないかのように、彼女は静かにベッドに眠っていた。いつもベッドの陽だまりの中に佇んでいた彼女。僕はその細くなってしまった腕を握った。窓の外には都会には不釣合いな星空が広がっていた。いつも西日が差し込んでいた窓からも星空が広がっていた。たぶん、今は夜だから、西日も差し込まないから、陽だまりもできないから、彼女の手は、こんなに冷たくなっているのかもしれない。いくら叫んでも目を開かないのかもしれない。

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