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| 2003年02月03日(月) 勇気と決断の詳細。 |
| 「またいつか、必ず戻ってきなさい」 一礼して院長室を出ようとしたその時、院長が僕の背中を見て呟いた。 ―― 「4月までで、仕事を辞めます」 僕の決意は固かった。周囲の反応は実に様々で、まず事務長がそれに反対した。 「辞めるって…キミ、キミは今年着工する社会復帰施設の責任者じゃないか」 僕は社会復帰施設の着工を一任されて、去年から様々な施設に赴き、情報収集と学習を重ねてきた。僕が創り出す医療と福祉の環境。それは理想的で希望に満ち溢れていた。 「それを易々と手離すなんて……」 決して易々と手離したわけじゃない。そこには何ヶ月にもわたる苦悩と葛藤が存在したのだ。ただ僕はいつもヘラヘラ笑っているだけだから、誰からもその真意を汲み取られなかっただけなのだ。 「その歳で看護主任になって、今になってどうして……」 看護部長も最初は勿論反対した。看護主任という重圧に負けたのではない。むしろ今の仕事は充実と楽しさに満ち溢れていて、不満など、それは多少はあるけれど、それは一般的な不満であって、寛大な目で見れば、それは皆無に等しかった。 「事務長と看護部長から耳に入っていると思いますが……」 「聞いてません」 「あの、4月いっぱいで仕…」 「聞いてません」 婦長さんは今も「聞いてません」の一点張り。僕の辞職をなかなか認めてくれない。婦長さんが一番懸念しているのは、おそらく後輩たちの動揺。何年にもわたり指導係として、看護の質とか病院の未来とか、時には研修会で、時には酒の席で語り合ってきた後輩たちへの懸念。 それは僕も一番懸念しているところであり、後輩たちの反対は必至だと思う。僕はそれが怖くて悲しくて、まだ後輩誰1人にそのことを言っていない。知っているのは病院上層部の人たちのみ。仕事、私生活に関わらず、金魚の糞のように付きまとうあの後輩も知らない事実。 僕は院長室の前で5分間ほど深呼吸を繰り返し、ようやく震える手でノックをする。 院長の側近、若しくは右腕などと冷やかされた日もあったほど、院長は僕を一目置いてくれていて、看護学生で働き出した頃から、今日までの実に8年間、お世話になった人物。僕が尊敬する唯一の人物。頭脳明晰で冷静沈着で、全く付け入る隙を見せない姿はまさに精神科医。僕は8年間、常に院長に憧れ続けていた。 飼い犬が飼い主を噛む時が、遂に訪れた。 「4月までで、仕事を辞めさせていただきます」 院長は、何やら書類に書き物をしていたが、万年筆の動きを一瞬止めて、僕の目をみて、「そうか……」と呟いてそれからまた書類に目を向けた。 「すごく遠回りになると思いますが、外の精神科医療と、福祉の実状を理解して、ゆくゆくは、臨床心理士の道を目指したいと思います」 僕は、私生活は散々なものだけど、仕事に関しては確固たる信念を持って生きてきたつもりだ。 「そうか……」院長は何か噛み締めるように同じ言葉を呟くだけだった。 「失礼しました」 僕は奥歯を強く噛み締めながら、出そうになる涙を堪えて、院長の元を去った。 「またいつか、必ず戻ってきなさい」 一礼して院長室を出ようとしたその時、院長が僕の背中を見て呟いた。 |
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