味噌への道 - 2007年08月22日(水) うちの近所にとある料理屋がある。 店長は南国出身のイケメンだ。 今日もここで遅めの夕食をいただいたのだが、 食事の後、彼が「よかったらどうぞ」と 野菜スティックをサービスしてくれた。 私は野菜スティックというものに、 あまりありがたみを感じたことがない。 だって、そうだろう。 野菜切ったのとタレみたいのが付いた、 原価で言えばたった数十円のものに、 何が悲しくて400円だの、500円だの、 いや場所によっては1000円とか払わねばならんのか、と。 だから、この時も大した感慨もなかったわけだが、 口にした瞬間、私は声を上げてしまった。 「こ、これは……」 野菜が新鮮でシャキッとしてるのは当然として、 付けダレ用の味噌が異様に美味いのだ。 イケメンに訊ねると、この味噌は自家製だという。 「実は、この味噌には、ボクの今までの人生が詰まっているんですよ…」 彼が語り始めたのは、想像を絶する"味噌への道"であった。 都内某所に老舗のレストランがある。 この店の名物は、そう、野菜スティック。 人気の秘密は、付けタレとして使われる味噌にあった。 野菜のうま味を引き出す、まろやかなコク。 舌の上に乗せると素材の粒々感が感じられるところも、 自然派志向の食通たちに評判だった。 この味噌の存在を知ったイケメンは、 レシピを知りたい一心で、この店の厨房でバイトをはじめた たかが味噌である。 彼はすぐこのレシピを手に入れられると思っていた。 だが、その目論みは脆くも崩れさったのである。 この味噌は料理長(頑固オヤジ)が自ら考案、 仕込みを行っており、レシピは当然、非公開。 ホールや厨房の人間はおろか、 オーナーすらその実態を知らないという、 何人たりとも近づけぬ聖域だったのである。 しかし、イケメンは諦めなかった。 何かにつけて料理長の周りをうろつき、 様子を伺い、ご機嫌を取り、時が満ちるのを待った。 数年後、彼と料理長は以前と比べるとフランクな関係になっていた。 それは彼の南国育ち特有の人懐っこい性格が、 なせる業だったのかもしれない。 そんな、ある日の厨房での一幕。 イケメン「料理長! 自分、あの味噌を作ってみたんですよ。 料理長「どれどれ……。うーん、ダメだ。全然なってない」 イケメン「やっぱり料理長にはかなわないなぁ」 料理長「だろ? がははは」 その時、イケメンの目が光った。賭けに出るなら、今しかない、と。 イケメン「料理長、この味噌、何が足りないんですか?」 料理長「ばーか、教えられるわけねえだろ」 イケメン「残念だなぁ。国の母さんに食べさせてあげたいのにな…」 料理長「じゃあ店の味噌送ってやれよ。明日余分に作っておくから」 イケメン「それじゃダメなんですよ。 自分で作ったのを食べさせてあげたいんです。 『母さん、オレもここまで出来るようになったよ』って……」 料理長「しかしだな……」 イケメン「実はウチの母、病気なんです。彼女が死ぬ前に、 自分がいっぱしの料理人になったことを教えてやりたくて…」 料理長「………」 イケメン「す、すみません。なんかしめっぽくなっちゃいましたね。 いいんです、今の話忘れてください」 すると頑固オヤジは眉間にシワを寄せながら、つぶやいた。 料理長「ちょっと待ってろ」 料理長は厳重に鍵がかけられた金庫の中から、一冊のノートを取り出した。 それをイケメンに渡すと、再び料理の仕込みをはじめる。 料理長「早く覚えろ」 イケメン「えっ…でも、これ…」 料理長「早くしろ。誰にも気づかれるな。 そして、母さんに成長したおまえを見せてやれ」 数ヵ月後、彼は家庭の事情という理由で店をやめた。 その手に、例のレシピを携えていたのは言うまでもない。 夏の照りつける太陽を眺めながら、彼は一人ほくそ笑んだ。 しかし、料理とは感覚優先の手作業である。 レシピ通りにやっても、あの味を再現するのは難しいことだった。 作っては失敗し、作っては失敗し、の日々が続いた。 彼の母(もちろんピンピンしている)は何度も懇願した。 「いい加減、味噌はやめてくれないかい?」 恋人は、その求道ぶりについていけず、彼の元を去った。 「あなたは私よりも味噌のほうが大切なのよ…」 それでも彼はやめなかった。 いくつかの歳月が過ぎ、血の滲むような努力がやっと実を結んだ。 彼は自分の店を持つことになった。 そして、あの味噌と変わらぬ味をテーブルに提供できるようになったのだ。 レストランの門を叩いてから、すでに6年の歳月が経過していた。 そんな話を聞きながら、私はグラスに残った ドラフト・ビールを一気に飲み干した。 そして訊ねた。 なぜ、そこまでしなくてはならなかったのか? なぜ、そこまでしてこだわらなくてはならなかったのか?と。 すると彼は、口元にさわやかな笑みを浮かべながら、こう答えた。 「あの味噌が好きだったんです。本当、それだけなんです」 ...
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