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2002年11月23日(土)

勤労感謝の日

11月23日、勤労感謝の日。

2年前のこの日の朝。父上は会えない人になった。
勤労感謝の日に亡くなった事で、誰もが「お父さんらしい」と言った。
私は、勤労感謝の日に、「本当の意味で」働いて育ててくれた父に感謝をする日になった。
でも、父上にとってこの日は、全くもって勤労感謝のご褒美にはならなかっただろうに。そう思う。

数日間、雨が続いていた。
昼間は仕事をしに自宅に戻り、軽く仮眠をして夜中は父上を見ていた。
普通なら、怖くて嫌な真夜中の病院の廊下を、平然とした気持ちで私は歩いていた。
一服をしに玄関前に止めた車に戻り、雨だなぁ。嫌だなぁ。と毎日思っていた。
朝になると、大抵雨は止んだ。そして、コンビニへ朝食を母上の分と買いに出かけた。
何を食べたか、全部思い出せる。

父上が亡くなった後、自宅に父上の着るものを取りに戻る車中から、綺麗な青空が広がっていた。
私は、ショックと、やり切れなさと、全ての人の行為に怒りとあきれ果てた感と。
全てが入り混じる感情を持っていたが、それはどこか他人事だった。
母上も、他の姉妹も、それは同じだっただろうが、皆はそれをストレートに出しているように、私の目には見えた。
やっぱり、私は他の家族に比べ、感情が鈍いんだろうな・・・と訳の分からないことを一人で納得していた。
感情の周りに、透過70%の白い膜が張っている状態。
それは、今も続いている気がする。

自分の家族、父方母方親戚一同、全ての人間の無神経さが嫌だった。
父上が最初に危篤と言われた日。
病室で運ばれてきていた父上が食べられなかった夕飯を、私は代わりに食べていた。
父上の妹である叔母が言った。

「こんな時に・・・ 美味いかい?」

この一言で、私は誰にも自分の心情等伝わらないとつくずく思ったし、理解してもらおうとも思わないと思った。
その後も、分かった風な事ばかり言う、その叔母達親戚一同に対し、「何も分かっちゃいない癖に」と心で悪態を付き無視し続けた。
いちいち、それに対し反論することや怒る事は、何一つ父上の為にならないから。
誰に分かってもらえなくても、父上だけが知っていればそれでいい。

父上の闘病中に当時私が関わってた一人の男にも言われた。
弱っていく父上の発言に対し、それに答える私の言葉が

「酷すぎるね」

とヤツは言った。
だから、そいつにも、二度と話をしなかった。

私は、あくまでも「日常」で居たかった。「普通の日」で過ごしたかった。
怖がっている人間に対し、同調し、その気持ちと同じになることが思いやり?
同情することが思いやり?
「怖いんだ」と相手に言われて、「そうだね。怖いね。」と言うのが思いやり?
私には、父上がどれほどの恐怖感で毎日を過ごしているかが、嫌なくらいに分かった。
自分がそれを聞くたびに、その姿を見る度に、這い上がれなくなりそうなぐらい落ちていきそうになった。
逃げる事もできない。見ていなきゃいけない。会い続けなければいなけない。
だから、私は「何言ってんだよっ!」といつも笑った。
「そう言いながら、長生きするんだぜっ」と笑った。
黄疸になってますます怖がる父上に「元が色白だから、綺麗な黄色だね」と言った。
それが、酷い言葉だと言われた。
その言葉を口からひねり出すのに、その言葉を笑って言うのに、どれほどの気力が必要か知りもしないヤツから。

泣いてばかりいる母上が羨ましかったと同時に、疎ましかった。
何かあると、やっぱり泣く2号が疎ましかった。
止めて欲しかった。父上に意識はきっとあるのだから、知らせないで欲しかった。

現に。意識が殆ど無いされていた数日間の間。
1号と2号が喧嘩をした時に、父上は怒った。覗き込んだ私の目を、はっきりと見て怒った。
「お父さん」と耳元で呼んだら、私の方に首を捻り、ハッキリ見て
「お前はうるせーなっ」と怒った。
亡くなる前日も、先生の「がんばりましょうね」という呼びかけに
「はいっ」とハッキリ答えた。
看護婦さんが身体を動かそうとすると、
「ちょっと待って」と言ってベッドの柵をしっかりと掴んでいた。

だから。
父上が聞こえないもの。
意識が無いものとして為されるベッドサイドでの全ての会話が、私には聞くに堪えないものだった。
だけど、怒れなかった。
そこで家族を怒ったら、険悪なムードになるのは分かりきっている。
母上の機嫌を損ねる訳にはいかなかった。来てくれていた親戚に嫌な思いをさせる訳にはいかなかった。

みんな仲良く。
全てが普通の一日であるかのように。何も気付かないでいてくれるように。
私は、不自然に、自然さをずっと装っていた。

父上にとって、それが最善の環境だったとは、決して言えない。
もっと、快適な方法がいくつもあったけれど。
でも、それが私一人に出来る精一杯だった。

そして、あと一日。
同じ状態で一日があったとしたら。
私はそれまで守っていたものをぶち壊していただろう。
父上に、その意思は無いにしても。
父上は最期まで私の気持ちを守ってくれた。