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■ セクシャルマイノリティに関する授業
ハートネットTVで昨日やっていた、特集だ。
同性愛や性自認の多様性に関する授業が、学校などで取り上げられているところがある 等といった内容のことをやっていた。
色んな認識が、フラットな状態で広がっていくのはいいと思う。
テレビではとある小学校で、「色んな家族がある(パパ二人とか、ママ二人とか)」といった事を、絵本を交えて上手に授業していた。 いいことだなあ、と思う。
現状では学校でそういったことを教えるのは、大学の教育学部レベルであっても「○○○といった性自認の方もいます」程度だそうだ。 けれどこれから、セクシャルマイノリティやジェンダーに関する授業が増えてくるのかもしれない。
いいことだと思う。 けれど、中途半端に広まりだしたときが、 まあ 私が受けるわけじゃないんだけど、 何ともいえない危惧を覚える。
指導要領に乗るから、授業をする。 よくわかっていない、本当いうとわかりたくもない、人が授業をする。 となると、 いや、まあ、FtMなどの当事者が授業をしたって、結果は同じかもしれないが。
もし生徒の中に、誰にも言えない、言わない、隠しておきたい、もしくはどうしようもなく悩んでいる(そう だと認識しているのに、認めたくない、信じたくない)みたいな子がいたとしよう。 その子はもしかしたら、周りがセクシャルマイノリティに対してどういう反応をするかすごく怖く思っているかもしれない。 同性愛者の体験談を聞くだけで、いろんな悩みや感情が抑えられず、泣いてしまうかもしれない。 周りの反応を聞くこと、見ることで、とてつもない疎外感を覚えるかもしれない。 たとえ、周りが肯定的な反応をしてたとしても、結局は自分とは違うのだ。 他人事だから、当たり前だ。 正直、私はその授業があったら出たくない。なるべく全力で。 授業のあとの、皆の雑談も、絶対に聞きたくない。どんな雑談であっても。 触れてほしくない。かかわってほしくない。 分かろうとしなくていい。 だから、ほっといてくれ。
けれど、 「ほっとく」というのは、 存在をただ認識しているから、ほっとけるのである。 そこに至るには、まだまだ道のりが通そうである。
「存在をただ認識する」というのは、肯定も否定も終わったあとの過程だと考えている。
当事者の人の声で、「理解しなくていい、けど、否定しないでほしい」というのは、そういうことなんじゃないかと思う。 私もそれがいいと思う。 けど、本当は、「否定しないでほしい」っていうのは、ちょっとぜいたくなんだよね。
ばれるのがこわい
と、思っている子が、
ばれてもだいじょうぶ
と、思えるには、
たぶん、いろんなものが必要だ。
物事が進むのはいいことだ。
けれど、 なるべく、 新しい種類の傷つき方をしてしまう子が増えないように、 してほしいなと、切に思う。
最初のうちはいいのだ。 本当にやろうと思っている人だけが、やってくれているから。 そうじゃなくなったときが、こわい。
2013年06月28日(金)
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