窓のそと(Diary by 久野那美)
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2006年04月21日(金) |
「もしできればでいいから、やって。」 |
と言われたときの理想的な対応てどんなだろう。
この台詞を言われると、私はかなりの確率で、それをやることになる。 「できることが多いから」というわけではもちろんなくて、 できるかどうか前もってわかることが少ないから。
自分にできるかどうか前もって分かることは重要な才能だと思う。私の学生時代のある先生は、テストの点数を正確に予測し当てた学生に10点以上のサービス点をくれた。「自分の力量が客観的に分かることは与えられた問題をすべて正解することよりも価値がある」と言っておられた。全く同感。
というわけで。そのどちらの資質にも欠ける私は「もしできればいいからやって。」といわれるととりあえず、やり始めるのだ。その結果、「やった」り「やらなかった」りすることになる。意外に簡単にできることもあれば、ずいぶん苦戦した末とにかくなんとかなることもある。未だできないままのこともある。途中でタイムアウトになって、結果的にできなかったこともある。
自分があまり前向きでないとき、あるいはとても混乱しているとき、あるいはこじんまりと閉塞していたいとき、にこの台詞に出会ったときには悩む。そして、ひとはどうやって対応するのだろうかと考える。そのとき、はじめて、この台詞が命令文であることに気づく。ひとは意外と気づかない間に命令されながら生きている。
「きっとできると思うけどやりたくない。」 「もしかしたらできるかもしれないけど、しない。」 という答は想定されていないのだ。
「できる(かもしれない)」というのはどういうことなんだろうかと考え始めると眠れなくなった。「できる」ことと「する」ことの間には無数の世界が存在している。そんなことをつらつらと考えている春の夜長。私も気づかずに言ってるのかもしれないなあと思うとさらに眠れない。春の夜は長い。特に四月の夜は。
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