窓のそと(Diary by 久野那美)

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2003年09月26日(金) たとえば手紙。

いつも誰かが何かを待っている。
以前、プロデューサーの方に、「久野さんの永遠のテーマなんでしょうね。」
と言われて、「あら。ほんとに。」とはじめて思った。
自分でも気づかないうちに。
そんな物語ばかりたくさん、創ってしまっていた。

ひとが何かを「待つ」という行為に、私はとても惹かれる。
「待つ」という行為は実は相手に依る行為じゃない。
自分一人にのみ、依る行為だ。
相手がいなくても待つことはできるけれども、自分がいなければ待つことはできない。相手は私が待つことを止めることはできないし、私は誰かがたとえ全力で阻止しようと試みたとしても、勝手にひとりで待ち続けることができる。
待っていようがいまいが、来るものは来るし、来ないものは来ない。
誰かに伝えなければならないことでもないし。
誰かに何かを要求しなければならないことでもない。

待つという行為は、「今、必要な何がが起こっていない」ということを前提としている。さらに当人がそれを認めていることを前提としている。
そのうえで、「今ここで起こっていない」ということ以外何の手がかりもない、どこからどのようにしてやってくるのか見当もつかない未知の出来事の可能性を肯定するのだ・・・。現在を担保にして、過去と未来を全肯定するのだ。

なんて無防備な!なんて不合理な!そしてなんて創造的な!行為なんでしょう。
・・・・と、思ってるのかいないのか、とにかく私の描く登場人物は、ときどき「何か」を待っている。待ち続けたまま一生が終わるかもしれないし、あきらめたあとに出会えることだってあるだろうし、思いも寄らない形過ぎて、出会えたことに気づかないことだってあるかもしれない。もう待たなくてもよくなった後で、それはふいに訪れるかもしれない。あるいはあくまでも最後まで訪れないかもしれない・・。

そういうこととは関係なく。彼らは待っている。
事情があるから待ている。待ちたいから待っている。
そんな彼らの状況にたまらなく、惹かれてしまうのはどうしてだろう。
自分でもよくわからない。

     ************

待っている手紙がある。
いつか必ず届くのを、待っている手紙がある。
何故待ってるかというと、必ず送りますと言われたから待っている。

もう、忘れてるかもしれない。
そういう常套句だったのかもしれない。
途中でどうでもよくなったのかもしれない。

そんなのひどい、とか別に思わない。
忘れるときは忘れるし、言い訳するときはするだろう。
時間が経てば状況だって変わるだろう。

だけど待っている。
待ち始めてしまったら、止めるすべがわからないから待っている。
届いたらどんなにか嬉しいだろうかと思う。
それが届いたとき。私はきっと何かをすごく肯定することが出来るのだろうと思う。
だけど、届かなくてもやっぱり待ってるのだと思う。
(そもそも「届いたとき」はわかっても、「届かなかった時」がいつなのかを決めるのは難しい。)

待つべきかどうかということと、ほんとに届くのかどうかということの間には実はあんまり関係がない。
結局の所。待っていたいから待っている。待つことにしたから待っている。

そんなことを思うとき。
物語の中で「待っている」、彼らの気持ちがちょっとだけわかるのだ。


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