窓のそと(Diary by 久野那美)
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<音>が猛烈に苦手。 生活の中には苦手な音がたくさんある。 スピーカーから聞こえてくる音や極端に高低の変化する人の声が怖いので気軽に居酒屋に入れない。静かなお店は高いので別の理由で入れない。 いろんな種類の音がとりとめなくあちこちから聞こえてくると気分が悪くなる。ときどき吐いてしまう。人の声は特に気になる。音に関しては、毎日が障害物競走。
だから。 わたしにとって、いいお芝居の最低条件は <素敵な風景が見られて> <堪えられない音が聞こえてこない> こと。 お芝居を作ってるとき。とくに、いまやっているラジオドラマのお仕事は音だけの世界なのでよけいにそうなんだけど、役者さんのイントネーションの位置や、台詞のリズムや音の重なり方、伸ばし方、言葉の長さやテンポ、みんな気になる。気になって気になって仕方がない。 表情や文脈や文法と音の高さやイントネーションがちぐはぐだとしんどくなる。優しい言葉を強弱やリズムの一定しない攻撃的な音質の言葉で話してるのを聞くと混乱する。 こってりした焼きそばにペパーミントの味がしたり、色むらがあって、部分的にすっぱかったり辛かったりするアイスクリームがあったらつらいはず。つまりそんな感じ。
「目に見えるものが好き」 「写真みたいなお芝居を作りたい」 といいながら、気が付くと稽古や打ち合わせの大半を「耳に聞こるもの」に費やしてしまっていた。音に対しては妙に力が入ってしまう。なんでそんなに音に固執するのかなと自分でも不思議だったんだけど、でも当たり前なのかもしれない。 目に見えるものが好きで、見たものは時間が経ってもわりと正確に覚えてる。 お芝居を作るときも、美術さんや照明さんと打ち合わせするのがいちばん楽しい。 <こんな材質にしようよ> <こんな色になるといいよね> <こっちがわに影を作りましょうよ> 打ち合わせの言葉も肯定文になる。
でも、音に関しては反対。 <こういう音を使わないでね。> <ここには音を入れないでね。> <あんまり高くしないで。> <あんまり大きくしないで。> <この音だけ省けませんか?> etc・・・ なぜか否定形のお願いになってしまう。
決して何かに対する批判でもなければ自分のスタンスを主張したいのでもない。せっかく作るんだから、少なくとも生理的に心地よいものにしたいと思うのは生き物として自然なことだと思う。辛いのが苦手な人が、薄味の料理を作るように。 寒いのが苦手なひとが、あたたかいセーターを作るように。
人間は、文化的である以前に生きてるんだから。 意味とかコンセプトとか以前に、生理的に判断しちゃうものって、やっぱりあると思う。 そして、それはとても大切なことのような気がする。
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