窓のそと(Diary by 久野那美)
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落ち葉の季節になった。 下を向いて歩くと、アスファルトの上に重なり合って落ちている赤や黄色の葉っぱが目に入る。
あれは小学校3年の秋だった。 春も夏も秋も冬も、せいぜい両手で数えられるくらいの数の経験しかなかった私には、「想い出」というものがよくわからなかった。 大人は「子供の頃の想い出」というものを持っていて、その内のいくつかはとても美しかったり素敵だったりするらしいということは知っていた。 でもいつどうやってどんな風にしてそれが創られるのか、無数にあるできごとのなかで何がどんな基準で選ばれたり選ばれなかったりするのか、そういうことがわからなかった。
人生で9回目の秋。 私は大人になった日の私のために、ささやかな実験をした。
<何の理由もなく、ただ、今のこの瞬間を記憶してみよう。今たまたま目の前にある、それ以外に何の意味もないこの風景を。それは大人になった日の私にとって、どんな意味をもつ風景になるんだろう。それは私の「子供の頃の想い出」の風景になり得るだろうか>
ふと足下を見ると、割れたコンクリートブロックの上に、赤や黄色や茶色の乾いた街路樹の葉っぱが見えた。その風景を10秒ほど眺めて、決意を込めて眺めて、通り過ぎた。
あれから何回もの秋が過ぎ、大人になった私は、それなりにたくさんの「想い出」を持つ身分になった。その内のいくつかはとても美しかったり素敵だったりする。 そのなかにはちゃんと、あの日のあの瞬間のあの風景も入っている。 今、目の前で見ているもののように、私はあのときの落ち葉の重なり具合やコンクリートの割れ目を想い出すことができる。 それを想い出すとき、いつも、その瞬間と今のこの瞬間の間になにか大切なものが挟まれているような気がする。あの時から今に至る何か。
なんだろうと気になっていたけど、それってつまり私なんだろうなと最近思う。 私というのは、あのときと今とを結ぶ装置なのだ。 何かを想い出すとき、いつも、その瞬間と今のこの瞬間の間に挟まれているもの。 あの時から今に至るための何か。 それを、私という。
何かの理由で何かが選ばれ、何かが捨てられたわけではなく、何かが選ばれ、何かが選ばれなかった結果できたものが私なんじゃないか? あのときわからなかったのは、まだ「私」ができはじめたばかりだったからじゃないか?
「想い出」という言葉が示すのは、遠く離れたあるふたつの瞬間を同じひとりの人間が同時に持っているということ。「あの瞬間」と「この瞬間」をおなじところに存在させてしまうために、あのときと今を通じてわたしは同じ人間で生きてきたのだ。
落ち葉の季節が来ると。いつもそんなことを考える。 あの実験は、けっこう私にいろんなことを教えてくれたような気がする。
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