フードジャーナリストの平松洋子さんが書かれた『おとなの味』を読む。「わたしの味」にはじまり「締めくくりの味」まで、「味」でまとめた65タイトルのエッセイ。「もうしわけない味」「奢った味」「男の味 女の味」「匂いの味」……。目移りしてしまうお品書きのように、簡潔だけれど想像力をかきたてるメニューが並んでいる。この人の書いたものを読むのは初めてだったけれど、食べることが本当に好きで、食べることと生きることがしっかり結びついている人という印象を受けた。おいしいものを食べると幸せな気持ちになるけれど、平松さんが綴るおいしいものの話を読むと、彼女の中に広がった幸せまでお裾分けされたような気分を味わえる。食べものの描写が活き活きと感覚に訴えるというのもあるけれど、平松さんの文章が、わたしの中にある幸せな食べもの体験を呼び起こすからなのだ、と気づいた。ある食べものを口に含んだとき、その味や香りと結びついた記憶が呼び覚まされる。それと同じことを、この本に書かれた「味」たちがやってくれたのだった。
娘の十一才の誕生日に、平松さんはお気に入りのレストランへ連れて行った。「贅沢を味わわせてやろうというのではない。かけがえのない贈りものを手渡してやりたかった。それも『もの』や『かたち』ではなく、精神の血肉を育てる真に豊かな味」。そう考えて導いた答えが、その店の味だった。そこで口にした生まれてはじめてのひと皿の味を娘は「わたしのたからもの」だと言い、「その夜着ていた服も履いていた靴も、座った席も、流れていた空気も、忘れられないという」。大人の椅子にぴんと背筋を伸ばして掛けている十一才の女の子を思い浮かべつつ、「忘れられない味」に出会った十二才の夏を思い出した。
その味は、初めての海外旅行で訪れた東ドイツのレストランで食べたコースのランチ。
ハンバーグステーキ以上の西洋料理を口にしたことがなかった中学一年生には、出てくるひと皿ひと皿が目新しく、口に運べば、未知なる味わいに陶然となり、この世にこんなおいしいものがあったのかと目を見張った。ところが、最後のデザートに出たパフェの生クリームに、あろうことかハエが着地した。わたしも焦ったけれど、ドイツのハエも焦ったようで、足をばたつかせるほどにクリームがからみついて体が沈んでいった。結局そのパフェを食べたのだったか、あきらめたのだったか。デザートのアクシデントも含めて忘れがたい食事となったその店の内装やテーブルの形や自分が座った場所まで、四半世紀以上前のことなのに、妙にありありと覚えている。味の記憶は思い出と強く結びつき、そのとき見た風景ごと保存されるのだ。
東ドイツにわたしと妹を連れて行ったとき、母は親戚から借金をしたと聞く。スーパーでは値引きシールのついたものを狙うくせに、外食や旅行には思い切ったお金の使い方をした。その大胆なメリハリのおかげで、わたしには「上等な味」や「めずらしい味」の記憶がたくさん残っている。そして、季節行事や誕生日などの祝い事に食事をからめてエンターテイメントにすることにも、今井家は積極的だった。父の厄よけに大量のぜんざいを作り、道行く人を呼び止めて食べてもらった(関西の風習らしい)日、漬け物がぜんざいの甘みを引き立てることを覚えた。
「雅子ちゃん、一年に晩ご飯は365回しかないから、一食一食を大切にしなさい」
大学一年生のときに下宿した家のダンナさんにそう言われたことも、本を読んでいて思い出した。何を食べるか、誰と食べるか、その一食一食があなたという人間を作るんだよと教えられた。同じ頃、大阪に帰省した折に母は「つきあいの金はけちったらあかん」と言われた。その結果、エンゲル係数の高い学生になったが、おいしいものを求めて京都の町を自転車で走り回り、出会ったあの味この味が学生時代の思い出を彩っている。
就職した広告会社には、わたし以上に食べることが好きな人が集まっていた。脚本の仕事をはじめ、知り合いがふえると、おいしいもの情報網が広がった。年齢とともに舌は肥えていく一方、高級店の一流の味でなくても、気の利いた会話があれば食事はごちそうになることを覚えた。
「すっかり忘れていること。忘れていることさえ気づかなかったこと。うっかり記憶の外に放り投げられていること。じつは、それらもまた、ひとりひとりを支えている。いやむしろ、覚えていること、知っていることなんかほんのわずかなのだ。知っていることに比べたら」というくだりが本文中にある。その「記憶の外」にあるもののいくつかをたぐり寄せ、あれをもう一度食べたいなあと舌なめずりしたり、一緒に食べた人の顔をひさしぶりに思い出したりし、自分がいかに食べものの幸せな記憶を持っているかということに気づいた。親に贈られた味。人生の先輩に教わった味。好きな人と見つけた味。わたしをつくってくれた、たくさんの味に感謝。
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