幼なじみのお父さんが亡くなられた。幼なじみからの電話を自宅で受け、いつも通り話した直後に倒れ、あっという間のまさに突然過ぎる死だったという。最後に会ってから十年ではきかないから記憶の中のおじさんはずいぶん若く、なおのこと驚いて呆然となった。知らせてくれたのは母親で、いつもは当たり前だと思っている母の声がなんだかありがたく思えた。自分の両親は元気でまだまだ長生きしてくれそうだとすっかり油断しているけれど、年齢の分だけ不意打ちに遭う確率は高くなる。だけど心積もりはまだしたくない。
わたしは昔から死というものを受け入れるのが下手で、今自分を囲んでいるメンバーがそのまま年を重ねて持ち上がっても欠けることはない、と意地を張って信じているようなところがある。自分も含めて全員がいつかは舞台を降りる宿命にあることを認めるのが怖くて、そのことを想像するだけで息苦しくなって思考停止してしまう。四年前に亡くなった幼なじみのヨシカは、留学先のベルリンに行ったままだと錯覚しているようなところがある。お墓を訪ねても、やっぱり実感はわかなくて、何かの冗談のように思えてしまう。
夏目漱石の小説だったか、亡くなった師匠の元へ駆けつけた弟子たち一人一人の様子を綴った短編があった。師匠との思い出を語る者、早すぎる死を悔やむ者、感謝を述べる者……悲しみとある種の興奮に包まれたその部屋で、「自分もいつかは死ぬのか」と静かに怯えている男がいて、この気持ちわかる、と思った。その後で、「だけど、その人もやっぱり死んでしまったんだなあ」と怖くなった。読んだのは二十年以上前、高校生の頃だと記憶しているけれど、死ぬことへのじたばた具合はその頃から改善されていない。子ども向けの絵本の奥付にある著者紹介を見て、「これを書いた人は、今はもういないんだ」と淋しくなったりする。わたしの場合、自分が消えることを恐れる気持ちが、形になるものを残したいという衝動をかき立て、書くことに向かわせているようにも思う。あの短編の著者も、そういう人だったのかもしれない。
2007年06月04日(月) 黒澤明映画『生きる』
2002年06月04日(火) 回文ぐるぐる「サッカー勝つさ」
2000年06月04日(日) 10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/26)