先週大阪から帰ってくる途中で、娘のたまの長袖ブラウスを落としてしまったらしい。飛行機の中で飲ませたりんごジュースがこぼれたので脱がせ、手に持ってひらひらさせて乾かし(機内は乾燥しているのかすぐにほとんど乾いた)、羽田空港から乗り込んだ京急電車の中で、袖なし一枚だと寒いだろうから羽織らせようとしたらいやがったので、手提げかばんにしまった……はずなのだが、帰宅して、かばんの中身を全部空けたとき、ブラウスが消えているのに気づいた。かばんは結構な深さがあり、口からぽろりと落ちたとは考えにくい。わたしがスーツケースに気をとられている間に、だっこひもの中からたまが手を伸ばしてブラウスを引っ張り出し、手を離してしまった、そんなことがあるだろうか。靴下が落ちましたよ、ガーゼが落ちましたよ、とこれまでにも落し物を知らせてもらったことは何度もあったけれど、今回は運が悪かったということだろうか。
京急から乗り換えた都営線の降車駅で尋ねると、同じ路線の各駅に届いている落し物情報と照合してくれたが、子ども用のブラウスはなかった。京急線と京急からつながっている北総線にも問い合わせたけれど空振りで、三日経って東京都交通局の忘れ物センターに電話しても、ブラウスは届いていませんという返事だった。自分の服だったらこんなにこだわらなかっただろう。娘の誕生祝いに贈られた大切な一着だから、簡単にはあきらめられない。そろそろ長袖の季節ではないし、秋には袖が足りなくなって着られなくなっているだろうし、そうしたら次の赤ちゃんにあげる運命だったかもしれないけれど、だからこそ、着られるうちにもっと着せておけばよかった、写真を撮っておけばよかった、と悔やんでしまう。
それでも、なくした日から一日経ち、二日経ち、一週間経ち、ブラウスのことを考える時間はどんどん短くなっている。ひとつのものを追いかけ続ける余裕がないのだ。もっと他にやることがあり、考えなくてはならないものがあり、ちっぽけな探し物を追い出していく。そうやって、ひと月も経てば、ブラウスのことを考えない日が来る。忘れ物は二度忘れられる。
小学生の頃、大切にしていた人形をなくしたときは、何日もそのことばかりを考えていた。代わりが見つからない淋しさを半年ぐらい引きずっていた。あの頃の自分の持ち物は全部合わせても小さな手を広げて抱え込めるぐらいの量で、どれかひとつがなくなっても大きな穴があいた。今の自分はたくさんの引き出しや箱に分散された持ち物の何がどこにあるかさえつかみきれていない。その中のどれかが姿を消しても、バランスやレイアウトが大きく崩れることがない。片方だけが残ったピアスを見れば、なくしたもう片方のことを思い出せるけれど、並んだ指輪コレクションを見ても、欠けた仲間を思い出すのは時間がかかる。いつの間にか消えていることにいまだに気づいていない物だってあるかもしれない。一人が持ち物に寄せる愛着の総量は決まっていて、物が増えれば、一つあたりの愛着は薄くなるのだろうか。物を人に置き換えたら、ちょっと怖い。
忘れ物のことを忘れる速度は、大人になってしまったことを測るバロメーターになるのかもしれない。だけど、ひとつの物のことを脳みそに居座ったみたいに思い続けられた頃が自分にもあったことを忘れたくない、そういう気持ちを置き忘れたくない、と思う。そのことを思い出させてくれた小さなブラウスのことを一日一度は思い出そう。何かにさからうみたいに、そう思っている。
2005年07月19日(火) 会社員最後の日
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