■高山ロケから帰ってきた『風の絨毯』のプロデューサー、益田祐美子さんと山下貴裕さんのコンビと食事。日本部分の撮影は終わったもののイラン部分の再撮があり、それに続いて編集があり、全然気を抜けないそうだ。ひと月先の『パコダテ人』公開でバタバタしているわたしにしてみれば、来年の公開までずいぶん余裕があるように思えてしまうが、日本とイラン、日本語とペルシャ語を行き来しての作業なので、時間が倍かかるのだという。「今井さんの脚本があったから、ここまで来れた」と益田さんは言ってくださるが、最終的な脚本はフィルムの中にあり、決定稿といえるものもあってないようなもので、わたしもその内容をよく知らない。では、わたしが書いた脚本はどこへ消えたのか。■脚本は役者のアドリブや監督の演出、スタッフのセンスや個性を発揮するための手がかり足がかりである。料理で例えればレシピ、建築で例えれば設計図、絨毯で例えればデザイン画にあたるものだろうか。『風の絨毯』の場合、原案はプロデューサーの頭の中にあった。「こんな絨毯を編みたいんだけど、デザインにしてくれない?」と言われたわたしがイメージを画に起こし、見える形にした。プロデューサーはその絵を持って賛同者を募っていき、絨毯プロジェクトは実現へ向けて前進した。そして、実際の絨毯を編むにあたり、「イランでは、こういうデザインは使わない」「われわれなら、こう編む」といった視点でデザインは大きく描き変えられた。それを見た日本側が「最初に入れてたあのモチーフだけは残してくれ」「この部分は日本にはそぐわない」と意見を言い、絵はまた姿を変えていった。編みはじめる直前のデザイン画は、最初にわたしが描いた絵とは似ても似つかないものだったが、不思議なことに、エピソードも台詞もすっかり入れ替わっても伝えたいことは変わらない。魂は受け継がれているのだ。高山ロケで工藤夕貴さん演じる画家・永井絹江が「絨毯に魂が宿る」といったことを話すシーンに立ち合ったが、そういうことなんだろうなあと自分の仕事に置き換えて聞いていた。脚本は消えたのではなく作品の中に溶けこんだのであり、絨毯に編みこまれたのだ。だから、「脚本のない映画で、あなたは何をやったのだ?」と聞かれたら、「あの絨毯を一緒に編みました」と答えようと思う。